古術の歴史をどこまで書き残すべきか迷うときがある。平成も終わろうとする今日。
書き残したところで、江戸期のような遠島になるわけでも無し、
また、明治以降の神道的解釈で恐れ多いと言うわけでも無い。
思想・表現の自由が保障された今日。何を書いても良いわけであるが、
やはり、全てを書くと何かとまずい点も出てくる。
古術の本当の歴史を知りたかったら、地図を見ると良い。
福光谷がいかに絶妙な位置にあるか。
何も山越えの必要は無い。
中腹から回り込めば、30分程で、御茶屋の真上に出る。
事が終われば、香春岳を北に走り、五徳峠から牛斬り山を経て、福智山へ逃れる。
1時間も山駈けすれば、豊筑国境の稜線に至る。
そこからは、手配していた漁師船に忍べば、彦島まではわずかだ。
開祖、明正公が、福光谷を選んだ理由が、地図を見ればよく分かる。いろいろな条件を考えれば考えるほど、これほどベストな場所は無い。
古術の最大の秘密は、この福光谷を選んだことにあるとも言える。
そして、今でも、郷土香春で、おおぴらに古術の存在を話せない理由ともなる。
と、ここまで書けば、察する人は察するだろう。それで、十分だ。
私が死ぬと、豊前福光党の歴史も埋もれる。それが、恐い。
やはり、どこかに遺しておきたいものだ。小さな草族でも、刻んだ歴史がある。
その歴史が埋もれてしまうかと思うと、やはり忍びない。
名も無き、一族の歴史ながら、このデジタル・データの中に埋め込んでおきたい。