さて、古術の全てを書き置くべきか?悩むところである。しかし、書き残して置かなければ、豊前福光党の数奇な運命も、この世から誰に知られるとも無く消え果てる。それも、また耐えがたい。
残念なことに、福光党は、昭和の初めに、その得がたい名を、愚かしい末裔どもが、わずかな手続きを怠ったために失ってしまった。
出色の出来であった12代目が、豊前香春を出奔して以来、ことごとく、無能な男系が三代に渡って続き、その所領の九割を失い、あまつさえ、名まで失うとは、慙愧に堪えない。
名を失った一族は哀れだ。名は、歴史である。つまり名を失うとは、一族の歴史を失うに等しい。恐ろしいことに、福光党男系男子で、我々が、福光党の末裔だと知っているのは、私一人になっていることを、15年ほど前に知り、愕然となった。
芸法は、門外不出であるから、当然、私一人しか受け継いでないのは、別段何とも思っていなかったが、まさか、福光という名前すら知らないとは、驚天動地以外の何物でも無かった。
福光党が、難しいのは、芸法を受け継がない者には、その歴史も教えないところにある。この徹底的秘密主義の習いが、私にもあり、自分の息子二人に、あまり福光という名を語らない。次男などは、時折、私が、「俺たちは福光党だぞ。」と言うときょとんとしている。
歴史に興味が無いから、なおさら、一族の歴史などに関心も示さない。恐らく、私が死ねば、豊前福光党を名乗る者さえ、いなくなるだろう。
もはや、隠れる必要性が薄くなった時代に、自然消滅をせざるを得ないとは、私に取っては痛ましすぎる。
繰り言を言っても始まらない。本題は、この写真について書きたかった。
この香春岳一の岳西方大岩壁は、自然の造形としては、非常に神秘的だ。ほぼ正三角形を描いている。福光谷は、この岩壁の麓にある。
しかし、その手前に、丘があるため、見えない。絶妙の位置にある。その地理的な絶妙な位置に、居を構えたことが、そもそも福光党の最大の秘密である。
この令和の時代にあっても、福光党の歴史を全て書き残すことは、憚られるところがる。
一般の武道流儀の場合。門外不出と言うのは、芸法を指しているだろうが、古術は、違う。芸法だけなら、既に、公開して、教伝しているので、特に人に知られてどうのということは無い。
問題は、「言振り」である。これは、福光党の思想・信仰文化体系であるが、これが、外に出るとまずい。
江戸時代なら、獄門打ち首必定。明治になっても、御上に憚るところがって、表に出すと大本の二の舞になる可能性もあった。
そして、戦後。それは、それで、あまりにもファナテッィクだから、やはり、隠すしか無い。また、故郷では語ることがしにくい。
その時代時代における諸々の事情により、常に隠れざるを得なかった。しかし、このまま滅びるとなるとあまりに口惜しい。全てを明かすことはできないが、都度都度に、明かせるところは書き残し、古術が続いたら、福光党の歴史も残して欲しいと願いぎりぎり出せる範囲は書き残していく気になった。
この正三角形を描く大岩壁。古術者はこれを尖り山と言って、尊崇したが、遠くからでも目に付くことが分かるだろう。
つまり、目印になるのだ。
江戸の頃、誰もが、藩を越えて自由に行き来出来るわけでは無かった。つまり、今ほど、他国の地理に詳しい者の数は限られていたと言うことだ。
そういう時代に、豊前香春岳一の岳西方に特異な大岩壁があり、その麓にある種の仲間がいるとすれば、人に尋ねることもなく訪れることが出来る。
しかも、この大岩壁から小倉街道(秋月街道)まで、徒歩10分。街道から見えないのに、街道まで徒で10分。早駈けすれば、ものの5分もあれば、街道に達する。
以下続く。