https://www.youtube.com/watch?v=QQxZrS3Tp5w
36年間、日本拳法道とともに歩んできて、なぜ、この競技法が普及しないのか?常に原因を考えてきた。色々な原因はあるが、一つ重要なことは、大学に拠点を作れていないことにあると私は考えている。
アマチュアスポーツが普及するための一つの方法として、大学に部活道としての拠点を作ることは最も重要事だ。
即ち、小倉南には、北九大がある。また、小倉の普通科連隊が、北方にある。ここが、私の小倉進出の狙いである。さらに、322号線を北上すれば、九州工業大学・九州歯科大、関門海峡の向こうには、下関市立大がある。
また、徳力は、10号線へのアクセスが良い。東小倉インターから、10号線を南下すると西日本工業大学がある。
八幡方面は、九州国際大・九州共立大、産業医科大学、また、若松方面へ向かえば、北九州大の工学部がある。さらに遠賀川河口から西へ向かえば、教育大がある。
田川に県立大・鴉尾峠の先には、近畿大学・さらに、九州工業大学情報工学科がある。
つまり、八木山峠以東には、12の大学が控えている。
ここを落とす。そこが今後の風門グループの着地点だと考えている。
今の時点で、オリンピック競技を目指すと言うと戯言だと笑われるだろが、この中島会長の着眼点は面白いと思った。
ならば、その手前に、国体種目になる必要がある。となると、その手前には、大学への展開の必要性がある。となると手前には、町道場の普及がある。と、着地点が見えていれば、打つ手も決まってくる。
36年やって、田川道場一つ、満足に人を集められない、お前が言うなと言われるだろうが、この競技には夢がある。
以前、私は、福岡武道館大会をかっての全盛期に戻すことが夢だったが、オリンピックを目指すと言うのは、着地点として、分かりやすく、明確だ。
日本拳法道連盟を組織した木立先生達を、草創第一世代とすると、私は、木立門下直系第二世代だ。そして、私が教えている風門諸氏は、木立門下直系第三世代となる。
遠賀川下流域から、福智山を東西で挟んで、八幡道場は、西へ、小倉南は、東へ、田川道場は、筑豊最深部へ展開する。
恐らく、私に残された時間は、後10年ほどだが、幸いなことに、生活に困らない程度の金と時間が今の時点はある。
60年に渡る武道人生の最後の花道として、中島会長の夢に付き合いたい。
恐らく、現実問題は、厳しい。撤退ゲームセットの宣告の方が、確率的には90%だろうと思う。
しかし、10%の成功の確率は見えている。0でない以上、賭けるのは悪くない。人生は、全て賭け事、投資というのが私の人生観である。
1989年。4月。31歳で、日本拳法道木立門下に入門。以来、1999年。3月末。41歳の手前2週間。アマKBを最後に引退するまで。
私は、競技場のコートやリングの上で、自分の命と言えば大袈裟になるが、体を賭けものにしていた。
引退後、01年から09年まで、体はいかれてたので、今度は、東京市場で外資にゲリラ戦を挑んだ。
その後、再び、2010年頃から、本格的に、日本拳法道の選手育成に乗り出し、育てた、若手を連れて、北九州圏内で、ある種の掛け試し他流稽古続けた。その後、再び、福岡武道館へ指導者として復帰した。その掛け試し期間中は、私自身は、袋刀という中身鉄パイプの日本刀を模したもので、得物による他流試合を繰り返していた。
振り返ると、どの10年も面白かった。
今、私は、異業種交流会と言う、ある種のビジネス広報プレゼン大会にはまっている。結局、どこまで行っても、他流試合好き。
ある種の癖なんだろうが、我が人生に悔いはない。
私の代で、目標は達成できなくても、道筋が見えていれば、誰かが後を継ぐものとほのかに期待している。
長々となったが、私は、日本拳法道と出会って、本当に良かった。この流儀を作り、この秀逸な競技法を創始した木立先生には感謝しかない。
自分で言うのも何だが、私はサラリーマンとしても、優秀な方だった。そこでの出世も出来る位置にはいたが、館長への道を選んだ。
今振り返って、職業人としての出世を選び、武道を離れていたら、多分、こんなにわくわくした思いはしなかっただろう。
やはり、日本拳法道と出会ったことで、凡人としては、かなり面白い人生を送らせてもらった。だから、この競技法を後世に残したいという思いが、常に私の行動の原点となっている。
風門諸氏も、この武道との出会いが人生の豊かさに繋がるよう。私の思い出と、今後の道筋を描いてみた。
護身・健身・修身、競技目的、目的はそれぞれで良いと思っている。なんと言っても最大の護身は、食うことと言うのが古術の教えだ。
私も、それだけは、徹底的に守ってきた。多分、形や技術指導ですら残り10年が限界のような気がする。
76歳まで、今度は、本格的に、競技連盟広報部長として、異業種交流会で異種プレゼンバトルを闘い、日本拳法道競技法のの認知度向上に貢献できればと幸いだと考えている。
諸氏の人生も武道とともに豊かであるように。祈りつつ。
令和6年4月15日。金辺峠を越える日まで、後2日の緊張感の中で綴る。