風門館は、<大和心復興・士道精神涵養>を目的に活動している。
だいそれたことだと思う。何の力も無い。鄙びた田舎なの、小規模道場が、言うようなことでは無い。
風門祭は、神事として行うと言っているが、宗教団体では無いので、信仰の強制とかするつもりはさらさらない。
ただ、神前に額ずき・柏手を打ち、我々が悠久なる日本文化の伝統に繋がっているのだと確認する儀式。それが、大和心復興で有り、その具現化したもの、肉体言語化したもの、それが、風門祭だ。
今年の第4回風門祭も、荘厳であった。
武士が、総勢。14人。福智町武道館の神棚の前で柏手を打ち、
<士道に背くまじき事>を誓って始まる。震えが来るね。
今時、こういう大会が、あること、出来ること。それ自体が大和心が死んでいないことの証明だと思う。
そして、遠慮会釈無く、闘う。何度も言うが、防具付きというのは、安全性を担保するためにあるのであって、ルール自体は、アマチュア草の根としては、かなり危険な部類に属する。基本。禁じ手が少ない。しかも、打撃によるKOは可なりなのである。
その中で、遠慮会釈無く闘う。ポイントで勝つのは、あくまでも結果がそうだと言うことであって、誰もがKO狙いで打拳を振るう。
暴れる君の世界なのである。
しかし、暴れる君であっても、闘いが終われば、流派の垣根を越えて、仲間意識が生まれる。
これも、神事として行っているから生まれる現象だと思う。
この風門祭だけでも14人の侍が、瞬時に生まれる。戦士では無い。あくまでも、侍である。
戦士なら、世界中どこにでもいるだろうが、侍は、日本にしかいない。いや、日本武道からしか生まれない。
戦士と侍の違いの分からない人には、風門祭に参加して欲しくない。私は答えを持っているが教えない。分かる人にはわかり、分からない人には分からない世界だと知っているからだ。
風門が、作りたいのは、<新しき世の、新しき武士である。>
小さな大会だ、だが、14人も集まっている。バタフライ効果としては、十分ではないか?
戦後の、自由と我が儘をはき違えた風潮。権利の主張はするが義務は果たさない。こういう戦後的誤ったマインドの末に、今や日本人の精神的劣化は、目を覆うばかりである。
だから、取り返したいのだ。美しい日本を。それが、風門の言う<大和心復興>なのだ。
小さな、風門祭に来て欲しい。14人の侍が、神棚に柏手を打つ、その瞬間。大和心は大きく復興している。
バタフライ効果を、信じるしか無い。いや、それにすがらないとやっていけない。
だが、確信はある。戦後的。GHQ的。うんざりするような気風を変えるには、神に激烈な武舞を捧げる、<風門祭>が一番効果があると。
第一、誇らしい。この誇らしいことをやっているから、幸せを感じる。
我々は、仲間を待っている。