私は、風門祭が終わった後の集合写真を見るのが好きだ。一人一人、みな穏やかで、紳士的な者の集まりなのに、いざ、試合となると獣のように荒ぶる。しかし、ルールは、絶対に守り、勝ちたいが故に、意図的な反則狙いなど全くない。
私からすると、理想の人間像の集まりであることが、非常に嬉しい。
私は、婆娑羅な人間が嫌いだ。また、勝ちに拘って、殺伐とした人間も嫌いだ。
かと言って、臆病者やただの甘ちゃんも嫌いだ。
常に凜として、誇り高く、勇敢、冷静沈着、そして、温情のある人間。そういう人間は実際には、少ないとは言え、そうなりたい。そうありたいと願う人間は多く無ければならないと思っている。
風門祭は、草の根のアマのための大会で有り、当然、最優先課題は、安全性の確保に置いている。しかし、防具ポイント制とは言え、完全フルコンタクトであり、KO有りであるから、ルール内であれば、基本使う業に制限はない。
しかも、体重別を基本としているが、同門相争わずを基本に置いているため、実質無差別になることが多い。
防具を付けていても、20K・30Kの体重差は過酷である。これで、だいたい本戦2分延長1分を2R闘う。
多分、見た目以上に過酷だと思う。
しかし、そういうことのできる人間が、あるいは、私のように現役を引いてはいるが、過去同じ経験をした男達が、これだけ集まると壮観である。
私は、文化的意味での日本人と国民としての日本人は、同じでは無いと思っている。
民族としての日本人は、やはり、教育によらねば育たないというのが、私の持論である。
その際、最も、効果を発揮するのが、<武道修練>というツールだと思っている。
単純に肉体を酷使するのであれば、激しいスポーツはいくらでもあるだろうし、野球・サッカーなど競技人口の多いスポーツの方が、アマレベルでも、練習がすさまじいのは承知している。
しかし、我々、風門のように、武道修練の目的を、そもそも、<民族的人格を育てるため>と意識してやっている種目があるだろうか?
武道でも、もはや少数派の部類だろう。
しかし、このボーダレスな時代だからこそ、足下の民族的文化・文明・人格。そういうものが明確に、意識的でなければ、流され、ただの根無し草になってしまう恐れは十分にある。
それで、幸せになるなら、問題もないだろうが、現実には、ボーダレスな、アナーキーな時代は来ないと思うし、また来たとしても、カオスが支配するだけで、個々人の幸福は逆説的に奪われるだろう。
大げさなと言われるかも知れない。しかし、私は決して大げさとは思っていない。
風門祭は、<大和心復興・士道精神涵養>発露の場として設けている。
九州の、遠賀川水系上流域。豊筑2州の国境域でささやかに行われているこの男達の小さなドラマは、一つの祈りの行でもある。
身体と身体を激しくぶつけ合い、投げ合い、転げ回る。荒ぶる古式相撲の再現は、同時に強烈な魂振りであり、霊的意味での秋津島活性化なのだ。
だから、風門祭なのである。