写真提供 「おやじの魅力」のおやじさん。<http://blogs.yahoo.co.jp/yasu1233jp>
神前の石段の前に、佇む蜘蛛は、何故に己が蜘蛛であらねばならないのか?
と考えるのだろうか?
蜘蛛は、蜘蛛であることに、疑問も持たず、生き、そして死んでいくのであろうが。
二拝も二拍手も知らない。
(それすら、明治以降に国家神道として、
統一された儀礼であることを知らない人も多い。)
賢しらな、人の決めた儀礼など、知るよしも無い。
この雄螺(おら)振る、騒がしき兵(つわもの)どもを、
腕が悪いと、笑っているのかも知れない。
神は、この蜘蛛を慈しむ。天と地の狭間にある、
生きとし生けるものすべて、神の御霊の分霊であるから。
賢しらなるは人のみ。
分け隔て無く、この神前の石段にのんびりと騒がしき者どもを見物する
この小さき生き物をも慈しむ。
古術者は、古術者であることに疑問を持ってはならない。
蜘蛛が蜘蛛であり。その生命を全きするように、
古術者も、古術者として、その生命を全きする。
それが務め。風のまにまに生きる。
時に<魔族・風魔・風狂流>とも名乗る由縁なり。
平成19年師走23日。<稲魂の御更衣>のワンシーンより。