常磐丸初段が1級を取得したときに書いたエッセイ。
<自信を売る。>風門館体術総合 2018・7・10
こういうことを言うとあちこちからおしかりを受けるだろうが、私は、道場というのは、基本。サービス産業の一種だと思っている。
武道だと、大上段に構えたとしても、金を取って教えている以上、払う側からすれば、サービスの対価として、金を払っていることに間違いないから、顧客満足度というのは常に問われている。
しかし、サービスを売ると言っても、そこは、各種道場の考えがあり、それがまた、顧客からすれば、各種道場の個性となっている。
では、風門は何を売っているのか?
端的に言うと、<自信を売っている>と言える。特に、体術総合コースは、それが、主力商品だ。
その自信も、相対的な強い・弱いというスポーツ的な価値観とは、またひと味違うというか、むしろ修験的な価値観で得た自信を売っている。
弱い自分・だらしない自分・机上の空論から引きはがされ、圧倒的な爆撃の中で、堪え忍ぶ自分。プライドをずたずたにされ、痛みに耐え、恐怖におののきながらも、前へ、前へと吶喊命令が下る。そのなかで、翻弄されながら、生き延びるために闘う。
そういう繰り返しの中で、ある日、ふと気づくと先達を片膝押さえで押さえ、面突き決めている自分を発見する。
荒ぶる己の野生の爆発の瞬間、咆哮の瞬間の歓喜を知る。
多分、そういう経験が、不可思議な自信を植え付け、やがて顔立ちが変わってくる。
いつもおどおどしていた自分が、どこか、背筋を伸ばし、自分の弱さを自覚しながらも、たとえ、絶望的な闘いであっても、必ず一噛みはしてやるという、ささやかな迫力を持つ。
そういう<男の顔>を風門は売っている。
さりながら、それで得た自信で、全てがうまくいくなどとは思ってもいない。相変わらず臆病で、自信が無いんだが、最後の最後の皮一枚がどこか違う。
それが風門の言う、<自信>だ。
風門で、初段を取ったところで、何ほどの役に立つのかというとこれは、これで大きな疑問が残るのも事実である。
がしかし、それでも、三年の苦行を経て、黒帯に達した者は、世の中で挫折を味わうとしても、やや、しぶとさが違う。泥にまみれても生き抜こうという最後の迫力が、いささか生まれる。人がどう評価しようが、己が生き残ることの重要性を知るが故に、落ちてゆく崖の途次であっても、必ず草木を掴もうとする。
それが、勇気だと知っているから。
結果がどうなろうと必ず草木を掴む。その執念こそが、<石の上にも三年>で養われた、風門魂で有り、風門士道である。
風門は、決して綺麗な死に方など望まない。泥にまみれ、崖の途次であっても、最後の一分の可能性を信じ、草木を掴む。
その精神が、迫力を生む。
そういう、叩かれても、叩かれても、立ち上がる。その<しぶとさと言う自信>を風門は売っている。
今般、常磐丸氏が1級合格するにあたって、こういうことをどうしても書きたくなった。
逆に言うと、道場があるから、こういうことが書ける。私にとって、風門は、私の理想を描ける大地(おおじ)のキャンパスであり、このキャンパスの上に私の理想を思いっきり描いている。
常磐丸氏もいい顔になってきた。このいい顔を見るために道場をやってる。
自信を失っている者がいれば、喜んで風門は手助けする。ただし、他力本願の人間はお断りしている。石の上にも三年。自力で錬磨する人間。いつでもCOME ONである。