熊本の武友であり、同志であるH氏から、正月、宅急便が届いたので、何だろうと思って、開けてみると、これが入っていた。<一所懸命>。好きな言葉だ。
もともと、古術が受け継がれて来たのは、自分の土地を守るためという現実的な側面があった。江戸期、土地から切り離され、官僚化した武家よりも、自前の土地を持つ百姓の方が、よほど濃厚に、<一所懸命>の意識は強かったと思う。
この平成の世でも、田舎の土地争いは激烈である。境界を巡っての争いは、半端ないストレスであるが、一歩退けば、二歩入ってくる訳のわからん人間には、欲得以上に人としての意地を通す必要がある。
その際、実際に、暴力沙汰にはならないにしても、なるかも知れないという現実があり、いざと言うときはその暴力に負けないという根拠があるから、言葉の応酬が出来る。
私は、その実体験から、古術が家守の芸として受け継がれてきた一つの真実を見た。
これは、仕事場でもそうだろう。悪質なクレーマー。訳のわからん上司・同僚・部下。今の時代、暴力を振るえば、警察沙汰になるから、まさか、暴力はないだろうと思いながら、時折、ありえないはずの手をだしてくるおかしな人間がいることも事実だ。
そういう経験があると、万が一の際には、負けないという気構えが無いと、口論の応酬もできなくなる。外交と同じで、武力の背景のない交渉ごとは、引け腰になるから、その時点で負ける。
引いていいなら引けば良いし、逃げて済むなら、逃げればいい。しかしながら、人として、職業人として、どうしても退けない一線というのがある。その際は、顎を引き、臨戦態勢で、覚悟を決めなければならない。
その際に、自分の武力が支えになったことは間違いない。武力は、必ずしも、路上の現実だけのためではない。むしろ、リーマン社会の交渉ごとの支えになるというのが私の実感で有る。
鎌倉武士の<一所懸命>の精神は、生きていく上で、必要不可欠というのが、私の持論である。
この焼酎を頂いて、支離滅裂ながら、思うことが多々あり、あえて、<一所懸命>という言葉に反応した私の諸々の思いを書き連ねたい。以下続く。