古術の本質とは、何かと問われたら。それは、詰まるところ<自給自足思想>に尽きると答えるだろう。
この自給自足的な思考自体は、日本の里山文化においては、近代まで、ありふれた考えで有り、むしろ一般的であったとさえ言える。
ただ、古術が異様なのは、江戸期260年有余に渡って、一介の自作農にもかかわらず、芸法・信仰文化まで、それを自前で作り上げようとしたことにある。
理由は、多々あろうが、一番は金の問題だと思う。
当たり前のことだが、芸法・学問などの習い事の金は高い。
信仰文化も、人に頼めば、やはり金がかかる。
だから、自分で作ってしまえと言う、乱暴というか。大胆というか。
そういう人間が歴世続いたから、今日の古術があると思っている。
この花は、全て、自前である。私の家では、今でも、祖霊供養用の花は、ほぼ自給している。
そのため、四季折々に花が絶えないよう、植栽している。
そうすると当然、その時期時期に花があまる。それを母親がこうやって玄関に活け、家人で楽しむ。
母親の手習いは、嫁入り前の修行で、いささか習った程度で、免許の類いは持っていない。
だから、専門家からすると、素人のお粗末生け花でしかないだろう。だが、先祖伝来の土地で、祖霊を供養するために自前で育てた花で、ついでに玄関まで飾る。
私は、十分に満足している。人と比べない。争わない。優劣などに関心を示さない。
唯一の基準は、自分や、家人が満足するかどうか?
まさに、古術と言うのがそれだったのである。
自分にとって、最良。それが、古術者の全てにおける価値基準で有り、そういう生き方の哲学を私は、肯定している。
62歳になった、この頃、本当の意味での古術のあり方。存在意義というものが分かってきた。
自給自足的という思考は、同時に、自立的と言う思考につながる。
恐らく、古術伝承の最大の動機が、その精神を残すことにあったのではないかと思う。
権威に頼らず、確固たる大地の上に立つ。卑屈で無く。粗野でも無い。質朴だが、野卑では無い。その絶妙なバランスの取り方が、家産運用の哲学となり、究極の意味での家守の芸では無かったか。
古術が受け継がれてきた本質の意味について、母親の無免許の相当自己流の生け花にそれを思うのである。