古術の得物は、元は薙刀だと伝えられている。しかし、先代の見解によれば、むしろ棒踊りの手が、実戦体験を元に実用化されたのが、古術得物の本質ではないかと言っていた。
私は、薙刀も棒踊りも知らないので、良くは分からないが、古術の護身に対する考え方を述べる上でこの話は残して置いた方がいいと思うので言伝えしておく。
棒踊りというのは、今でも、日本各地に残っているらしい。私も、月刊秘伝で一度写真を見たことがある。踊りと言うから、芸法的には、たいしたことは無いと言う印象が強かった。(この環境もユーチューブの登場で劇的に変わった。)
芸法・神事・祭事一帯の形が、まさに、古術と同じ構造である。
先代の見解によれば、江戸期260年に及ぶ太平の世とは言え、百姓の水争い、土地争いは激しく時としては、村総出の出入りも珍しくなかったそうである。
だから、そういう非常時に備えて、百姓は、体術としては、相撲。力石鍛錬。また、得物としては棒踊りとして、護身の法を学んでいた。その、一種の変形が古術の福光派の原型ではないかと私によく言っていた。
時として、死人も出たと伝えられる百姓の水争い。それに備えて、薙鎌。棒で自衛する。
十分考えられる話だと思う。
また、先代は士族の出であり、自身、秋田藩伝止心流柔術免許皆伝、日の下新流を学び、柔道・剣道・銃剣道・相撲にも達者であった(あくまでも本人の弁で有り、免状など見たことは無かったが、腕は私が保証する)。そして、戦後は日本各地を回りながら、色んな武道の研究と歴史・古史古伝などを研究してきた人であり、その上での見解なので、私としては、信用できる見解となっている。
先代が、この古術を相伝するに当たり、一番驚いたのは、まさしく<死合いの手>を伝えていると言うことであったらしい。
それで、なぜ、田舎の百姓の家に、これほどの芸法が伝わってるのかに関心を持ち、15代目を引き継ぐとともに、その原因を探ったらしい。
そして、出てきた結論は、水争いなどによる、実戦の体験を、代々、まさしく<家守の芸>として伝承してきたために、まさに野戦から生まれた芸法となっていると言うことであった。
開祖明正公の伝承部分については、真偽は確かめようもないが、少なくとも
生々しい、棒、薙鎌、双手鎌による実戦の手合いが、この芸法を生んだのだろうというのが先代の見解であった。
そして、なまじっかの武家の流儀より、野戦の芸法としては優れていると言うこともよく言っていた。
古術福光派が、相伝最終行法として<真剣手合い十人取りに>こだわるのも、それが由縁だろうとも語っていた。
また、こういう芸法は普通、百姓身分であれば、個人一代の喧嘩芸のようなもので終わるのだろうが
これを、代々<律儀者>が引き継ぎ、その<言振り>文化とともに、伝承してきたと言うことそのものに大変価値があり、貴重なのだと言っていた。
伝承部分については、真偽の確かめようがないが、少なくとも一代、二代では、ここまで、整然として完備されないだろう。
武家の流儀は、伝書などもあり、現在も続いているが、江戸期の百姓の護身の芸法については資料などもなく、歴史の裏に消えていくだろうから、是非とも残すようにと言うのが先代の口癖であった。
古術福光派は、生きた江戸百姓身分の護身芸法の標本としての価値があると言うことであった。
先祖伝来、護身とは何かを考える上で、貴重な示唆ともなっている。