福光流古術と言うのは、<芸法・神事・祭事>三位一体の流儀である。だから、当然、独自の信仰文化体系を持っており、その信仰文化体系を、総称して、<言振り>と呼んでいる。
中でも、重要なのが、天意思想である。これは、偶然の中に、神意を見るという思想で、端から見ると、たんなる偶然に意味づけしているとしか思えないだろうが、我々、古術者は、だから、神意なのだと感じる。
例えば、なぜ、平成最後の正月二日に、わざわざ、この焼酎が届くのか?偶然ならば、あまりにも出来すぎている。だから、逆に恐いのである。
これを偶然と考えるには、あまりにも、ピンポイント過ぎる。
実は、最後の稽古が終わってたら、だらだらした生活になって、武道と言うより、道場の運営が重いと感じて、やる気が失せていく最中に、必ず、こういのが届くから、お神様は、まだ、やれと言ってるんだろうなと解釈している。
そういうのが天意思想なのである。
しかし、新規入門者が絶えてから、もう1年になる。年に、一人入ればいい方で、その一人もだいたい、昇級審査前にやめていく。
この間、いつも人集めに奔走してきた。武道と言うよりも、この人集めにうんざりしているというか、疲れ果てている。
かと言って、今更、他の道場に、門人として行く気にもなれない。
痩せても枯れても、この福光雲母。小なりといえどもも一国一城の主であり、それになれたのも日本拳法道連盟のおかげである。木立先生には、恩義がある。
そうは言っても、人が集まらないと、滅びるしかない。自分の理想をいくら語っても、誰も集まらないとなると、結局は、自分が否定されてるという冷徹な現実に押しつぶされそうになる。これが現状である。
しかし、理想は捨てられない。だから煩悶する。そして投げ出したくなる。
そう、その投げ出したくなってきている最中に、だいたい、こういうのが届く。
<一所懸命>。俺にとっての、<一所>は、間違いないく、風門である。
それに<命を懸けろ>と言われたら、そうするしかないのかなと感じる。
残りの余生、風門を通して、俺の理想を叫び続ける気にまたなった。
全ては、<神のまにまに>だ。
令和元年。5月1日。私と風門は、新たな旅を始める。