福光派古術には、理想の人間像が、確固としてある。古術芸法修練とは、その理想像に一歩でも近づくことを目指す、 <行ひ>なのである。理想の人間を作るための、教育法。それが、古術と言う流儀の本質でもある。
平時にあっては、野に咲く小さきすみれの花の如く、つつましく・清楚に生きる。野に隠れ、山に伏し、名もなく、市井の凡夫として平穏に生き、やがて静かに滅ぶ。
しかし、一旦緩急あれば、<荒ぶる風魔>となって、地の果てまでも駆けめぐる。守るべきもののために、<誓約>のために、功利など眼中になく、己一身を賭して、ただ、ひたすらに、 <魂捨猪振り・岩走る>。
桜の美しき散華を脳裏に浮かべながら、<岩走って>、散る。
<平時にあっては、すみれ。乱時にあっては、
散りゆく桜となりぬべし。>
できる、できぬではない、そうありたいと、願いつつ、芸を練る。この平成の世に、奇態と言えば奇態。風変わりと言えば風変わり。
だから、古術なのである。
<古術は、古術だから、古術である。>
12代目猪之吉さんの残した言葉が、我々、古術者の中では、未だに根付いている。