古術は、伝書、系譜等を残さないようになっている。<言振り>と呼ばれる、口承にて、代々言伝(ことづて)を行い、芸法の口伝と、豊前福光氏の謂われを伝承するようになっている。
その中でも、歴代相伝者の<真剣手合>の体験談やエピソードを語り継ぐことを、<武者振り伝え>とか<武者伝え>と呼び、重視している。
また、<開祖明正公>のみ、<公>の尊称を用い、それ以降は、全て、丸丸さんと
さんづけで、呼ぶのが習わしとなっている。これは、一族のみで伝承してきた経緯からであろう。
歴代相伝者の中でも、特にエピソードが多く、私が、先代と先々代から何度も聞かされたのが、7代目犬斬り吉次郎さんと12代目猪之吉さんの話である。
12代目猪之吉さんは、近代古術の完成者と言われている。歴代相伝者の中でも、最も実戦体験を踏んだ人だ。中肉中背であったが、子どもの頃から大変力が強く、近代に於いては、唯一、米俵2俵取りを行えた人であった。
幕末、豊前小倉小笠原藩と長州藩の戦争についてご存じだろうか?歴史の本を調べれば、すぐに出てくると思うが、この幕末の折、長州藩は、小倉口から豊前の深奥、田川地方の一歩手前、金辺峠近辺まで、進出してきた。
この折、小倉小笠原藩の家老・島村志津麻が、主に企求・田川郡の農民を集めて、ゲリラ戦を行ったのは、有名な話である。
この戦に、12代目は、19歳ぐらいの時参陣している。本来、豊前福光党は、尊皇反幕思想であったにも関わらず、何故、小倉側で参陣したかというと、そこには、理非曲直を正す。看板に偽り有りを嫌うという古術者の思想が大きく影響した。
奇兵隊が門司から上陸し進軍すると、小倉城は自焼した。その折り、小倉城下にいた、猪之吉さんの幼なじみで、大の親友の許嫁が、あろうことか奇兵隊によって犯された。ために、その友が、小倉側で参陣した。
この時の猪之吉参之怒りはすさまじく、天軍にして、天軍にあらざるは、既に天軍に非ず。夜盗の類い討つべし。
説明すると、帝を奉じる天軍が、犯罪を犯すなら、それは天軍ではなく、私兵の類いだと言うことになる。そういう看板に偽り有りを古術者は嫌う。
その結果、小倉と長州が講和しても、猪之吉さんは、長州兵と闘い続けた。その最後が明治10年の西南戦争ということになる。
それが、よりによって、長州の敵に回るとは。11代目と激論になったと言うが、
猪之吉さんを止めることはできなかった。
後難恐れ、11代目太助さんによって、猪之吉さんの存在は、一切抹消された。
もともと参陣するにあたり、香春岳山中で死んだことになっていたらしい。
猪之吉さんは、飛び手の名人でもあった。福光党の秘蔵していた鉄砲・火薬・刀剣類を持って、以降、長州兵と激闘を繰り広げることになる。
この野戦体験が、近代古術を生む契機になったと言われている。
参陣にあたっても、福光の名は一切表に出さず、(江戸期、百姓は姓を名乗ることが許されなかったと言う事情にもよるが、負け戦に備えて、後顧の憂いを断つためだっとも伝えられている。)
その後も、秋月の乱、佐賀の乱、そして、最後は、明治十年の西南の役にも参陣し、生涯五十人斬りを達成したと伝えられている。
古術が門外不出と言うのは、一つには、門外に出せない事情もあったと言うことだ。
猪之吉さんは、自身の体験を元に新たに改変した近代古術の芸法を、もと肥後士族田村圭一郎さん(十三代目)に伝え、その手を豊前福光党男系男子に渡すよう依頼した。
その結果、選ばれたのが、十四代目国太郎さんである。この国太郎さんが私の師匠であり、血縁的には、従兄弟半になる。
12代目の話しは、小説が書けるくらい波瀾万丈で有り、全て、開かして良いのかどうか。迷うところもある。今後も、都度都度に書き残してゆきたい、