日本拳法道連盟・豊前福光派古術連盟 風門館公式ブログ

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古術相伝3代目:元太郎参之事

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古術相伝3代目は、元太郎さんである。

 

福光党の芸法は、家伝の武術であり、一族だけで密かに相伝していた。それで、もともと<継人誓詞の儀>とは、福光党の男子が、数えの15になると行う一種の元服の儀なのである。数えの15になると、満月の夜。桜の咲く頃。一族の<継人>以上の者が集まり、この<継人誓詞の儀>を行う。戦前までは、香春岳山頂にて。私の代は、福光谷に坐ますの<貴船神社>の拝殿で執り行なわれた。

 

これを受けて、初めての伝承者の一人となり、正式に、<魂捨猪振の道>への正式な入門が許されたと言うことになる。また、それは、豊前福光党の<武者の一人>として、認証されたと言うことでもある。

 

その<継人>の中で、年長者から<真剣手合10人取り>を行い、それに成功した者が、<守人>となる、と同時に、豊前福光党の頭領職を受け継ぐ。このしきたりを作ったのが、3代目元太郎さんであると言われている。

 

元太郎さんは、山芋堀の名人であり、香春岳山中で、山芋を掘っては、それを天秤棒に担いで、わざわざ、小倉の城下まで、売りに行っていたらしい。

目的は、真剣手合いをするためである。城下士は後々が面倒なので、浪人者を見つけては、卦試合をふっかけていたと伝わっている。素手は、村相撲の強い者に。

 

それで、得物で生涯20本。素手で生涯30本。その50本の<真剣手合>の体験から

相伝最終行法としての<真剣手合十人取り>を定めたと言われている。一重に
古術芸法の形骸化を防ぐ意味と<武者之道>を守るためであったと言われている。

 

徳川の治世もいよいよ盤石となり、平時にあって、福光党もいよいよ心まで百姓化していく現実の中で、<魂捨猪振>の道を、残すための処置であったと伝えられている。

また、一つには、一族の頭領を決めるための一つの手段であったらしい。豊前福光党十一家。それなりに、田畑・山林などの継承で、内紛も少なからずあった。一族の結束と芸法の形骸化を防ぐために、<守人>に、ふさわしい行法を定めたと言うことである。

 

本来の福光党には、一代一人で、長守・屋守・若守の三代の<守人>と、12人の<継人>がいたのである。これは、5人で一隊、3隊15人の戦闘単位を意味する。各守人が、小頭となり5人で一隊を作り、その三隊が集結して15人の戦闘単位となる。山岳野戦・白兵戦を想定すると、合理的な戦闘単位では無いかと思う。この戦闘集団をもって豊前福光党と称し、無論、武力も持っていたわけである。表に出ることは無く。極秘裏に。

 

私が、古術を公開したのも、このかっての最大戦闘単位。15人を再構築したいと考えたからである。道のりは遠いが、明確な目標があるということは、ゴールがはっきりしているということなので取り組みやすい。現実は厳しいが、私の苔の執念は、諦めが悪い。