日本拳法道連盟・豊前福光派古術連盟 風門館公式ブログ

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古術相伝二代目:正広参之事

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古術相伝二代目は正広さんである。

 

開祖明正公は、豊前香春の地に帰農したが、決して、<武家還り>を諦めたわけではなかった。一朝乱あれば、いつでも起ち、美作菅家党以来の、福光党再興を図るお心であった。それゆえ、例え、身は苗字帯刀を禁じられら百姓となっても、農事の傍ら、武芸の鍛錬を怠らなかった。それが、古術の起源である。

 

また明正公は、七男一女と言う子宝に恵また。この七人の男子と、一女、おまさが嫁いだ、本田家の者に自らが、考案した芸法を伝えた。これが、豊前福光党十一家の起こりである。

 

農事に励む傍ら、武芸を鍛錬し、乱あれば、豊前福光党十一家を引き連れ、世に豊前福光党の旗を立てよと言うのが開祖の教えであった。

 

この頃は、武芸鍛錬も兼ねて盛んに、一族総出で、猪狩りを行ったと言われている。この時に、長子正広さんが、棒槍を発案し、よく、これで猪を狩ったと伝えられている。

この正広さんが、豊前福光党二代目頭領であり、古術福光派第二代守人である。

この正広さんは、棒槍を手投げ槍としても、用い、猪・山犬などをよく狩ったと言われている。

 

古術得物第五法飛び手のうち、手投げ槍の術は、正広さんの時に起こったものである。後々、みな、この手投げ槍をよく使い、猪を狩ったと伝えられている。

 

古術が、<魂捨猪振る>とか<猪振る>とか言う言葉を盛んに使うのは、どうやら,

この猪狩りの体験からの影響も強いと思わざるを得ない。この体験が先にあって、後に国学の影響を受けて、道鏡事件で活躍された<和気清麻呂公の故事>と結び付けられたのではないかと推察している。

 

また、猪の猪突猛進にして、用心深く、また、その身のこなしの素早さに、武術的に感じるものがあったのではないだろうか?猪に学んだ流儀というのも、いかにも、田舎臭いが、生活の体験の中から生まれたが故に芸法・言振りとも続いた可能性も強いと私は思っている。

 

この手投げ槍の術も現在では失伝しているし、また棒槍も話として聞いているだけで、私は実物を見たこともない。ただ、作り方は簡単であるから、そのうち、発注して、記念に作ってみようかなと思うこともある。

 

棒槍は、自衛用の隠し武器としては、薙鎌と並んで優れている。古術得物芸法は、元手(太刀)から始まり、第二法棒之手、第三法薙鎌と進む。つまり、本手である。薙鎌より先に学ぶと言うのは、万が一、戦になった場合、手槍が有効だと考えられたからであろう。

 

平時には、棒。狩りには、棒槍、乱時には、その芸がそのまま、手槍となる。そういう「ところが古術の優れているところである。