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令和5年度 第8回風門祭日本拳法道錬成大会 壮年男子変手之部 川上崇(風門館・50歳・二段)VS徳光智行(風門館・52歳・5級) 田川郡福智町武道館 10月8日
風門館は、「護身・健身・修身の三位一体を図る」を掲げて活動している社会体育・生涯武道の団体だ。
このうち、護身と健身は、分かりやすいようだが、意外と理解されないのが、<修身>についてである。
言葉のイメージから、道徳的なもの・精神修養・人格陶冶という漠然としたイメージを持つようだが、風門館の唱える<修身>は、もっと具体的で有り、はっきりしている。
それは、自分の生活をコントロールする事。出来ることの一語に尽きる。
変手スタイルは、私が、50歳前後でも試合が出来るように工夫して編み出した、競技法だが、実際は、かなり痛い。しかも、このスタイルを20代・30代でやるのなら、そこまでのことはないだろうが、50代でやるとなると相当ハードな部類に入ると思う。
しかも、二人とも、武道・格闘技経験がさほどあって入門したわけではない。
その50歳と、52歳の二人が、これだけ動けるというのは、かなり脅威だ。
そこで、問題になるのが、<修身>である。二人とも仕事が忙しい。その貴重な休日の午前中を削りだして、稽古に精励しなければ、この乱取り法で、試合など出来るものではない。
前日の飲酒、これが一番社会人が辞めていく要因である。家庭の都合・仕事の事情、いろいろと人それぞれにあるが、私の経験上、社会人で辞めてく人間は、前日に深酒をするパターンがけっこう多い。
普段の稽古は、面着装でも、当て止め、もしくは寸止めでやるが、当然きついのをもらうことも多い。となると、前日、深酒をしていたら、頭が怖くて、稽古自体、来れない。稽古に来れなければ、試合には当然出ることなど不可能である。
しつこく強調するようだが、コンタクトスポーツに怪我はつきものだ。従って、試合での勝ち負けに興奮する以前に、我々社会人の場合、まず無事に帰還し、翌日、平然と仕事に行けるというのが、この競技を続けるための最大の秘訣となる。
言うのは簡単だが、実際は、そう簡単ではない。もう、のべ900人ほど教えたが、<自分はいつ死んでもいいです>などと大口をたたく人間に限って、試合前になると辞めていく。
稽古で痛いというのもあろうが、風門館では、それほど無茶な稽古をさせていないから、出来ない稽古ではない。だいたい前日深酒をして、朝起きれない。頭が痛い、だから、今日は休もう、で最後には、試合に出るのが怖くなって辞めていく。
このパターンが非常に多かったのも事実だ。つまり、<修身>が出来ていない者は、自ずと稽古に来なくなるから、4年で取れる二段が、まだ、5人しか出ていない。
日本拳法道連盟では、基本、40歳以上の試合出場は、推奨していない。道場で、軽い空乱程度は、護身実用を考えるなら、多少経験はした方が良いと思うが、健身とのバランスを考えた場合。私も、勧めたくない。
ただし、出る価値が大きいのも、試合の持つ魔力である。第一に、試合に出ようと思えば、稽古での集中力が違ってくる。
誰でも、最初から負けるつもりで出る人間はいない。せめて、一勝はしたい。そして、最低限、無事に帰還したい。これが、本音だろう。
だから、稽古に熱が入る。川上二段も、徳光5級も、やはり、大会を控えて、稽古の真剣度は高かった。
その結果、実力が大幅にUPする。乱取り稽古・試合稽古の最大の利点は、その速習性にある。
私の若い頃、何十年も修行して、達人になるのだという流儀が流行ったが、万が一の護身を考えた時、何十年も護身実用の必要性のない時代、社会なら、武道・武術など必要ないのではといつも疑問に思っていた。
護身実用としての速習性と継続性のバランスをどう取るか?これが、私の長年の研究課題で有り、行き着いたのが、現在の風門スタイルである。
昨年、第7回大会から、実験的に運用し、試行錯誤を重ねてきたが、内容的にも、見応え十分だ。
我々、風門館は、平均年齢51歳。社会的にも、職業人として、それぞれの持ち場で責任ある立場にある。うかつには怪我ができない事情を最大限に尊重しながら、ぎりぎりのところを攻めている。
見る側のための興奮のためにやっているのではない。やる側の人間として、身の丈にあった競技法・乱取り法の研究は必須だ。
そういう、前提の元に、護身・健身・修身の三位一体を図る上で、この変手スタイルは理想に近い。
二人で、102歳。この試合だけでは無く、ここまでに到る川上二段の4年間、徳光5級の三年間の健闘を讃える。