年金を語る 1
先般、5月4日に母親の米寿の祝いを香春の銀寿司で行った。記念日文化のない我が家としては、非常に珍しいことだった。
なぜか、母親が、この米寿だけは拘ってして欲しいと言うので、開くことにした。
恥ずかしい話しだが、普段。妹夫婦が来たときは、大抵母親の年金をあてにしている。一家全員馬鹿者である。
しかし、逆に言えば、今の年金制度は実にありがたい制度である。
私の母親は、私の扶養にぎりぎりはいれない程度だが、国民年金だけではないので、つい。甘えてしまう。
人間は、経済的自立が出来ないと何事においても不自由である。
かって、田舎の年寄りが悲惨だったのは、年金がなかったからである。
自分の食い扶持を自分で賄えれば、家族同居でも肩身の狭いどころではない。こちらが、何かと甘えている。
母親を経済的に面倒を見なくて良い。だから、子供らに教育投資が出来た。
私も、そうありたいと思っている。ざっくりした計算だと預貯金と年金で子供の世話になることはない。
最近、年金は破綻するという不安を書き立てる人間がいるが、その一方で、無駄な税金の使い方が横行し、しかも、それが世上にのぼらない。
自給自足的な生活の制度設計は、年金ありきである。
だから、自分の将来を守るために、政治にも関与せざるを得ない。
米寿の祝いが、とんだ政治談話に転化する。それが、今日の世相だとも言える。