日本拳法道連盟・豊前福光派古術連盟 風門館公式ブログ

田川・筑豊・北九州・行橋  護身術・日本拳法道・グローブ空手・総合格闘技・総合武道 風門館HP http://www5.atwiki.jp/wotoko/

豊前福光派古術 水田(みづた)之御更衣(おさらい)縁起。

九州豊前香春五徳川下流から、香春岳三峰を眺める。2015年頃撮影。

古術では、春分秋分夏至冬至・新年(旧暦)の年に5度、御更衣を行うのが、基本であるが、それ以外でも、臨時に御更衣を行っても良いことになっている。

 

今般、6月に執り行った日本拳法道連盟・風門館 夏季昇級審査会は、同時に、古術福光派の水田之御更衣を兼ねていた。

 

6月の、田に水が一面張られ、早苗が風に吹かれ、揺らぐ頃に行えば、水田之御更衣となる。

 

江戸の昔、百姓にとっては、早苗が一面に植えられている風景は、まさに、希望であっただろう。この早苗がたくましく成長することは、即ち、家運隆盛の基(もとい)であるから、その言祝ぎを込めての名付けだったのだろうと思う。

 

私が、日本拳法道の指導を始めてから、既に33年の歳月が流れた。しかし、40代半ばまでは、福光流のことなど、誰にも話したことはない。福光党男系男子、しかも、選ばれた者だけが、密かに受け継ぐ一族相伝門外不出の流儀と言うのもあったが、普通に怪しすぎる。

 

そういう流儀の相伝者は、捏造流儀として叩かれるのが落ちで、めんどくさいことになるのが必定であるから、誰にも話さず、私の代で、終わりにしようと思っていた。

 

ところが、不思議なもので、40も後半になると、妙に古術の稽古がしたくなり、木霊丸氏とたまに、拳法の合間に稽古していた。

 

そして、田川市武道館がアスベスト対策のために、突如閉鎖となり、稽古場を失った旧日本拳法道連盟・風門同志会は、4度目の解散を余儀なくされた。

 

その一年後、最後の門中であった、木霊丸氏(現福光流5段師範・日本拳法道二段)と千手丸氏(現正指導員・日本拳法道三段)の三人で、正式に、日本拳法道と福光流を併伝する風門館として稽古を再開し、今に到っている。それが、今から、14年前のことになる。

 

もう風門館となってからも、14年の歳月が流れたのかと思うと、時の流れの速さに驚く。

 

門人も入れ替わりがけっこうあって、古い門人は、千手丸三段一人となった。新しい門人は、まだ、私の教えている何が、日本拳法道で、何が、古術か分からないだろうが、長くなれば、おいおいとわかっていくものだ。

 

御更衣とは、本来、<おさらい・復習>の意味で有り、かっては、守人の前で、習い覚えた手業を延々と繰り返す行を指していた。よろしかろう。の一言が出るまで、指定された技を延々と繰り返す。実に単調極まりなく、気の遠くなるような行法だった。

 

また、<御更衣>の字を当てるのも意味があり、さらさらとした滑らかな布になるように、手業を滑らかにするまで稽古せよという意味を隠し持っている。

 

風門館は、日本拳法道を主軸として稽古しているが、組討・掻取(寝技のこと)・護身用の手は、ほぼ古術由来の手業を教伝し、拳法道+古術を持って、風門スタイルとし、他流試合に臨んできた。

 

また、文化的には、古術の影響が強い。

 

古術は、用語も独特だし、文化的にも土俗的で、古めかしい。今様の何でもあり競技武道である日本拳法道と古めかしいが、元々総合武術なので、何でもありを受け入れやすい古術が、奇妙なバランスで同居しているのが、風門館の文化的特徴だろう。

 

今時、流行らないことは承知しているが、私が指導する以上、このスタイルを崩すつもりはない。

 

慣れれば、味わい深い文化だと思う。