日本拳法道連盟・豊前福光派古術連盟 風門館公式ブログ

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尖り山縁起。捨身の行。

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風門館は、日本拳法道と豊前福光派古術を併伝する道場である。表は日本拳法道中心なのだが、文化的には、裏の福光流の影響が強い。特に、護身に対する考え方などは、ほぼ、古術の伝統を受け継いでいる。そういう風門館が、どういう目的で、日本拳法道ルールによる他流試合に臨んでいるのかについて以下に記したい。

 
江戸の初期。ある秘命を帯びて、九州豊前香春へ下向した、豊前福光党開祖明正公が、何故、この福光谷に居を構えることにしたのか。
 
理由は、いくつかある。基本、古術者というのは、一つの目的で行動することは無い。動機が複数あるときのみ、行動に移す。これを、<八重垣>とか、<三つ巴>と言う。
 
一つの行いには、複数の意味があり、そういう時のみ、<行ひ>を行う。
 
それで、福光谷が気に入った理由の一つが、この<尖り山>の存在である。
 
この九州豊前香春一の岳西方にある、大岩壁は、西に向かって、ほぼ正三角形を描き、自然の造形美としては、あまりにも、霊妙である。
 
古術では、尖った先には、神が降りやすいと言う信仰を持っているので、この頂点を見上げる位置に、居を構えるというのは、ある意味、当然だったかも知れない。
 
そして、もう一つの理由が、<捨身の行>。要するに修験がやる覗きの行。あれをやるのに、あまりにも都合が良いので、この地を選んだと伝わっている。
 
古術の<捨身の行>は、験力を得ることは、修験と同じだが、その先に、悟りを開くと言うような、目的は無い。
 
あくまでも、験力を得るために行うのである。古術では、死地を味わうと、人が太古に持っていた、超能力的なものが蘇るという信仰があり、そのために、山を駆け、<捨身の行>を行うのである。
 
現在、他流試合を行うのも、目的は、<捨身の行>にある。断崖絶壁からつるされるのとコートで、怯えながら、猛然と突っ込んでくる相手に、一歩も引かず、立ち向かうのは、傍目から見ると、まったく別物に見えるが、実は、古術者にとっては、同質の行法なのである。
 
すなわち、それが、<捨身>。そして、目的も験力を得ること。現代風に言うと、感覚器官をMAXにするということになろうか。
 
私は、覗きの行の真似事をやったことがあるだけだが、他流試合の行は、100本の満願を達成した。

 

 その頃、確かに、相手のオーラが色で見える時があった。また、試合中でも、相手の息を吐く音が大きく聞こえた。相手の目の色が見えたりもした。セコンドのつぶやきから、ため息まで正確に聞き取れていた。ただし、競技を引退したら、そういう現象はもう起きない。

 
風門館は他流試合と言う言葉を良く使うので、誤解を招きやすいが、勝った・負けた自慢を目的としている訳ではない。それよりも、恐怖を味わわせることに主眼を置いている。
 
死地の恐怖を疑似体験することで、人としての野生を呼び覚まし、同時に、生きていること。天神地祇に生かされていることへの感謝を感じさせる。それが一番の目的だからである。
 
もちろん、あくまでも疑似体験であって、死んだら元も子もない。その人の中で、顔が引きつる疑似体験ができれば良いのだから、無理はさせないし、安全性には最大限配慮している。だからこその、日本拳法道ルールなのだ。
 
防具付打撃系総合武道で、オープン制のため、大会に出るだけで、必然的に他流試合になる。市井にくらず凡夫には、このルールで十分、<捨身の行>が果たせる。 
 
こういう考えで試合に臨むので、格闘技系の人からは、理解されないし、また、戦わなければ絶対不敗という系の人からも敬遠される。
 
我々、風門は、<捨身の行>として、他流試合を行う。そこに本願がある。風門で長く続く門中は、そこを理解している者が多い。見た目は競技武道をやっているわけだが、発想法は、修験に近い。それが、風門スタイルである。