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そのために、芸法修練を怠りなくする。
それを、私は、当然のこととして今でも思っている。
豊前福光党の遠祖は、かって、吉野朝に使えたと言われている。それが、盛った話なのかどうか、分からないが、私は、そう聞いて育った。また、そう聞いて育ててくれた先代と先々代に感謝している。
十津川千本槍に対して、豊前福光党十五筒。その十五筒も、最盛期の最大動員勢力であったようで、いざという時の幕末においては、わずかに二人だけになり、おりからの豊長戦争で、11代目と12代目が、分裂。
12代目は、宿敵小笠原に、郷党守るべきの掟にしたがい、参戦。ちなみに、15筒と言うのは、火縄銃のことである。明智に使えたのも、鉄砲で使えた。古術福光派は多くの芸法を残したが、実は、鉄砲・火薬に長けていたからこそ、その存在価値があった。ただし、江戸期帰農してからは、撃てても、隠す。つまり、郷筒としての存在は表に出ないように、巧妙に隠し続けた。そして、豊長戦争で、無論、火縄銃などの飛び手は無用になったので捨てた。
かって、豊前福光党が、血族集団で成し遂げようとしたことを、私は、風門でなそうとしている。
風門十五拳。30年かけたが、思うようにいくはずもない。しかし、古術者の理想は、間違っていないと確信している。十津川郷士もかっての気概を持ち続けているだろうか?
死ぬまで私は豊前衛士を育てるために奮闘する。風門は、私にとって教育機関である。むろん、強要はしないし、普段、こういう話しもしない。ただ、こうやって書き残しているので、読む者は読み、思う者は思うだろう。そのためだけに書いている。
日の本には、衛士が必要だ。豊前風門衛士15人。それを作るために、私の日々がある。