日本拳法道連盟・豊前福光派古術連盟 風門館公式ブログ

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豊前福光派古術 元手 変手勝 一本目:一文字、二本目:叩き

 
今年も第6回風門祭を無事に執り終えた。この風門祭の折に、福光流の手業を披露する。
 
現在、風門館は、日本拳法道と福光流を併伝する道場として活動している。
 
日本拳法道を主とするコース。これが、風門のメインだ。2番目に、組み手NGの人のために、福光流護身体術コースもあるが、今のところ0人。
 
最後に、福光流の太刀術を中心に、福光流そのものを稽古するコースがある。これは、現在、私と木霊丸師範の二人だけだ。
 
しかし、楽しい。二人だけ、都合の着く土曜日。午前。風門館本部道場で稽古している。形稽古だけだ。
 
その我々二人にとって、年に一度の風門祭はありがたい。ここで、その一年で稽古した手を披露し、動画に記録として残す。つまり、デジタル伝書作りも兼ねているわけである。
 
形の披露に過ぎないのだが、人に見られるというのは、緊張する。特に、目の肥えた人に見られる。正直。やばい。
 
今年は、タフスのM先生の目を意識した。M先生。柔道がベースだが、自剛天真流も極めた人だ。それだけでも、硬くなってしまう自分を情けないと思いながらも、その緊張感があるから。普段の稽古に身が入ると言うものだ。
 
また、まさか、マスター・フゴが来て演武するとは思ってなかったので、今年は、えげつないくらいに緊張した。
 
細かいこと言うと、間違ってるところも大きいのだが、そこは、反省点として、また、一年頑張れる。
 
ボビナムも得物を使う。目は肥えているだろう。ボビナムの演武参加者の一人は、確か得物で世界大会でも上位に入った人で有名な先生がいる。その方のことは、動画で何度も見ているので、私は知識としては知ってるのだが、まさか、当人が、来ているとは思ってなかったので、後の食事会の時気がついて、ひええ!ち感じになった。
 
おいおい。殴り合う他流試合を卒業してから、もう12年。まさか、演武と言う形の他流試合をするはめになるとは思ってもみなかったが、けっこうはりきってる自分がいる。
 
福光流は、日本5大捏造流儀として数えられるまでに、マニアック界では、名前が売れているらしい。
 
しかし、私は、いつも思うのだが、捏造とは何か?技を捏造したというのか?ならば、この手は、私が捏造したのか?
 
剣道初段の私が、こういう技をそもそも考えつくものなのか?
 
私が独創したとしたら、私は天才であるが、武道の手業と言うのは、そうそう、独創できるものではない。まして剣道初段の人間が、ここまで手業を独創できると考える法が、素人過ぎはしないか?
 
また、私の先祖が捏造したとしたら、それを捏造と言うのか?
 
鎌倉古流豊前伝福光派古術は、江戸の初期、豊前福光党開祖福光三郎左衛門明正公が、帰農するに当たって、薙鎌・棒の手・双手術など、当時の百姓が携帯しても疑われない、得物芸法・体術を以て、家守の芸として始めたのが、流儀の起こりである。
 
このどこが、捏造なのか?知りたいところだ。確かに、柔道としか思えない技もある。そういうのが明治以降に流入した可能性は否定しない。
 
しかし、そのれのどこが悪いのだろうか?
 
古術は、家守の芸である。目的はそこにある。だったら、時代時代で、また、歴世守人の経験、他流で学んだ技を取り入れて何が悪いのか?私には、さっぱり分からない。
 
既に、私が豊前で伝える古術は、全員日本拳法道の門下に伝えている。
 
当然、日本拳法道と既に分かちがたい古術になっているが、それもまたまた、当然であろう。
 
そうやって、時代と共に変化していく。それを捏造と言うのだろうか?
 
正直、気分が悪い。元々、百姓の家守の芸を名乗る流儀に、何故捏造する必要があるのか。その動機が、私には見えない。
 
ボビナムと交流しながら、我々を差別しないボビナムに魅力を感じている。
 
我々が、家伝の歴史を語っても、世間が知らないから捏造流儀。文字としての記録が無いから捏造流儀。
 
まあ、なら、それで良いよと言う気分になる。
 
世界は広い。ボビナムのように、明るく開放的な文化と一緒にいる方が、よほど、気分が爽やかだ。
 
そのうち、ボビナムの技が流入する可能性もある。そして、マニアが騒ぐのだろう。あれは、捏造だと。ボビナムをパクッタのだと。
 
まあ、頑張って評論してくださいというしかない。そういう気分である。