https://www.youtube.com/watch?v=rL5FDhN_-Ho&t=9s
令和5年6月25日。日曜日。午前の部。晴れ。田川郡福智町武道館。
行者:千手丸氏・千木丸氏・八咫丸氏・弦音丸氏
稽古内容 体術護身・体術総合
逆構之事。浅車・浅掛
花手(初伝)12本の中から、
三本目:鉢回、四本目:前落、五本目:大外掛
変化:肩絡み
○受け返し
着胴蹴込み稽古 6種×5本
○鍛錬手合(乱取り稽古)
鍛錬手合L1 1分・3R 全員
鍛錬手合L4 変手ルール。90秒×2R
風門館事務局 kirara.1958@gmail.com 代表福光まで。
昔、先代が、稽古がお終わる度に、長々とした稽古禄を分厚い封筒で送ってきた。
当時は、その意味も価値も分からず、適当に読み流して、全て散逸してしまっている。
今、思えば貴重な伝書だったのだと思う。
まだ、一つ月も立っていないのに、記憶が定かでは無い。教えた内容は、大まかに間違いではないが、行者は不確かだ。
人の記憶というものがいかに曖昧か。これで、よく分かる。風門館が動画に拘る一つの所以である。
私の稽古禄は難しいと門人から言われることが多々あるが、それは、当たり前である。私は、風門館で、武道を通して、侍を育てようとしている。
だから、当然教養も必要となる。
単なる格闘スポーツをやっている訳ではない。私にとって、道場は、寺子屋である。
生涯体育・生涯教育の場として風門館を運営している。このことは何度も強調しているが、単に、強い・弱いを競い合いたいのなら、プロの指導の下、格闘技を学ぶのが、合理的である。
しかし、教養としての武士道を学びたいなら風門館のような場所が適切である。ただそれだけのことである。
ただし、風門館の武士道は、机上の空論ではない。書物読みの知識だけ武士道とも一味違う。
体を通して学ぶ実践哲学であり、その上で、文字を通しての武士道も学ぶ。
私は、防具を付けた試し合いすらできない人間の武士道というものを信用しないたちだ。
よく、<武士道とは死ぬことと見つけたり>とか、書物の知見をひけらかす人がいるが、だったら、安全性の高い、死ぬリスクは、ほとんどない防具付きの徒手格闘の試合くらい出ろよと言いたくなる。
で、そういう文士で、競技に出たことのある人をあまり見た経験がない。逆にすごいルールに出た経験のある人で、国家の捍衛たらんとする人もあまり見たことが無い。
私は、北辰一刀流の開祖、千葉周作の、それ剣道の要は・・・・の一節が好きだ。
武道の究極の目的はそこにあると思っている。今時流行らないのだろうが、私にとっての武道とは、そういう価値観のものである。
流行らなくても、自分が運営する以上、その考えで行く。でなければ、運営する意味が無い。
私が、出来なくなったら、門人に私の考えを強要するつもりはない。それぞれ、自分の理想を追求すれば良いと考えている。
ただし、私が運営する以上。私の考えでいく。それだけのことである。