日本拳法道連盟・豊前福光派古術連盟 風門館公式ブログ

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士は、己を知る者の為に死す。<史記> 1975年の福光雲母。

令和2年度 第6回風門祭日本拳法道錬成大会 集合写真

士は、己を知る者の為に死す。<史記

 

昨今、多様性とか個性尊重という言葉をよく聞くが、本気で言ってるのかと私は疑っている。

 

そもそも、視聴率至上主義のマスコミが、多様性とか個性とかを言うこと自体矛盾している。視聴率とは、あるいは、発行部数とは、多くの人間に支持されているという証であり、むしろ、そこには普遍性があると言うべきではないだろうか?

 

なぜ、そんな話しを突然しているのかというと、私は、子供の頃から、少し変わった子で有り、周りとの異質感に居心地の悪さを感じてきたからである。

 

1958年生まれの私にとって、プロ野球の選手の名前を知らない。スポーツカーの名前を知らない。そんな子供は、その異質さを隠すために、適当に話しを合わせるかしかなかった。少数派は、どんな世界でも生き難いものだ。

 

少数派だったが故に、常に多数派であろうとするマスコミという世間が、漠然と嫌いだった。私のマスコミ不信は、そういう理由もあって、相当根深いものがあるといえる。

 

1975年、昭和50年。17歳の頃。多分、その頃だったと思うが、

 

「士は、己を知る者の為に死す。<史記>」という言葉を、漢文の時間で習ったような気がする。はっきりとしたことは覚えていないが、高校の漢文の時間に習ったのは、間違いないと思う。

 

好きな言葉だった。男なら、誰しも持つ感慨で有り、そういう生き様に憧れるのではないだろうか?

 

しかし、私の年代でも、漢文が好きとか言うのは、絶対的少数派で有り、極力、人に知られたくない秘密のようなものだった。

 

それほど、古めかしいものが、捨てられ、死語になっていく時代を生き抜いてきた。

 

「士は、己を知る者の為に死す。<史記>」という言葉が好きな高校生だと知られたら、今風なら、<キモイ>と言われるだろう。その当時でも、言葉は違っても、感覚的には同じ扱いを受けていたはずだ。

 

たまに、人から、なぜ、武道をしてるんですかと問われることがある。<まあ、そこに、山があるからみたいな。>と言って言葉を濁す。

 

私は知っている。世の中の人にとって、武道なんかをする人間は少数派で有り、すごいですねとは言われるが、実は、それほど、すごいとも思って無いというか、そもそも興味が無いということを。

 

そういう人に、武道について語っても時間の無駄なので、適当に、うまい酒やうまい料理の話しをする。

 

無難でいい。本当の少数派というのは、自己主張しないものだ。多数派の話に適当に合わせて、つまらない時間は、極力減らす。

 

私が、武道を未だに続けている最大の理由。それは、そこが、息ができる空間だからだ。他にも、様々な理由はいくらでも述べることができる。

 

しかし、本当の理由は、<そこに山があるから>とたいして変わらない。

 

「士は、己を知る者の為に死す。」と言う言葉が好きなんですと言ったとしても、少なくとも<キモイ>とは言われない。

 

唯一、息の出来る世界。金魚と同じで、口をパクパクさせながら、武道という空気を吸わないと死んでしまう。

 

だから、空手でも剣道でも合気道でもなんでも良かった。武道的な世界であれば、呼吸が出来る。

 

結果として、日本拳法道と鎌倉古流が一番長くなったのは、中でも、総合系武道が好きだというだけで、本質的には、武道的な空気が吸えればそれで良いと言うのが、本質である。

 

「士は、己を知る者の為に死す。」 今時、こんな感覚を好むこと自体、絶滅危惧種に等しいだろうが、それでも、そこかしこに、生き残っているはずだ。

 

風門館は、段・級の允可に非常に拘る。それは、段・級に才能とか年齢とかは関係が無いからだ。誰でも、稽古に通い続ければ、その稽古した時間の分だけ、報いる。

 

それが、日本拳法道連盟の段級である。そして、その、価値を、先に取った我々が一番知っているからである。

 

「士は、己を知る者の為に死す。」

 

同じ苦労を共有し合った者だかこそ、連帯も生まれる。仕事なら、金がそれに報いることになるだろうが、武道は、金が無い。与えられるのは、名誉しか無い。

 

わずか一枚の紙切れに過ぎない認定書だが、ぞこには、時間が詰まっている。

 

<士としての、あなたの価値を知っていますよ。認めていますよ。>

 

それを、言葉にすれば何文字かの紙切れ一枚で、認定する。

 

そこに喜びを感じるのなら、こちら側の人だし、そこに価値を見いだせないなら、別世界の人だろう。

 

別世界の人だからと言って、非難している訳ではない。我々、少数派こそ、口先では無く、肉体言語として、多様であることを求めているからである。

 

ただ、我々は、我々の世界観・価値観を共有し、認定し、

 

「士は、己を知る者の為に死す。」という、前近代的な言葉を口にしても、生きづらくない世界を守りたいだけである。

 

1975年の福光雲母に会えたら、言いたい。お前は、お前のままでいいからと。

 

昭和・平成・令和と元号も変わり、古めかしい言葉と価値観は、ますます絶滅危惧種になっているが、案外、仲間はいる。

 

だから、2022年の福光雲母は、

「士は、己を知る者の為に死す。」という言葉を、平然とブログに書けるまで、あつかましくもしぶとく生きている。

 

写真 第6回風門祭日本拳法道錬成大会 集合写真。