今、世間は、ラクビーのワールドカップで盛り上がっている。もちろん、私も、もともと、ラクビーやアイスホッケーなどのコンタクトスポーツが好きなので、TVに日々かじりついている。
その一方で、一抹の寂しさがある。確かに、世界最高峰のフィジカルの激突は見応えがある。しかし、あなたにできるのか?見るだけの観客で良いのか?
見て、熱狂することも大事だが、自分がやる側に回ることを考えず、見るだけで満足していたら、かってのローマと同じ、滅びの道をたどるのでは無いか?
人に闘わせ、自らの身体は痛めず、選手と一体化して、満足感を得る。アバター化していないか?
私は、そういう見るだけの文化が嫌いだ。草の根であっても、自ら汗をかき、身体を痛め、奮闘する。そういうものに強く憧れを抱く。
私も、競技者としてのデビューは遅かった。何しろ31歳。平成元年の秋。第4回日本拳法道福岡武道館大会(現在の格闘フェスタ)が、初陣であった。
しかし、形稽古の流儀は、5歳の頃からやっている。福光流古術・剣道・空手・沖縄小林流・八光流・合気道。
その修練の上で、コートに立った。よく、世間では、防具だから安全でしょうと言われるが、逆に言うと、日本拳法道ルールを防具無しでやったら、アマとしては、日本最高峰の難易度になる、そういうある種過激なルールなのである。しかも、他流試合。
マスク&プロテクターで、安全性を担保している。だが、祖当痛いし、KO・Okルールであり、基本ポイントで勝とうとか思って出る選手はいない。マスク有りでも、KO出来るのを知っているから、皆、KO狙いで出てくる。そういうルールである。
今回、9名の選手が、参加したが、こうやって、今年の風門祭を振り返っても、私にとって、エボルート小倉ジムの内藤選手は光っていた。
40歳代・経験年数1年ほど。しかも、9名中、最軽量。よく出たなと思う。
恐らく、内藤選手。まだ自分の闘った相手の履歴を分かっていないと思うが、実は、二人とも手練れ。
にも関わらず、臆せず闘った内藤選手の姿が忘れられない。
アマの草の根には、それぞれ事情がある。内藤選手の事情は、私の知り得ないところであるが、40過ぎて、こういう場に出てくるには、何かしら、本人の中で、燃え尽きないものがあるのでは無いかと勝手に推察している。
私が、そうだった。だから、私は、やる側の草の根を大切にしたいと思っているし、自分もかって、たとえ草の根であっても、やる側だったと言うのが、ささやかなプライドである。
にも関わらず。その内藤選手を選手一覧で名前を落とすというミスを犯してしまった。また、エボルート小倉ジムの名前をミスるという二重の過ちを犯し心が痛い。
試合に出た選手にとっては、自分の名前が記載されたパンフレットは、宝物である。
風門祭は、手作りのミニ大会である。しかし、地方・無名ミニ大会としては、けっこうなハイスッペクだと自負している。
だからこそ、そこに名を連ねたはずの自分の名前が無いと言うのは、耐えられない。
安心してください。誤植を訂正して、既に印刷をしています。しかも、高品位の紙をあるだけ使いました。エボルートの分、8冊。綴じ合わせるだけの段階まで来ています。
目が悪いので、頻繁に、誤変換・誤植をやらかすが、皆さんの優しさに助けられています。ありがとうございます。
そして、今回の内藤選手。雷電選手の闘いを見ながら、リスクを取りに来たものには、何らかの形で報いたいと考え、大会最高齢・最軽量の選手で、賞状をもらえなかった選手には、敢闘賞を贈りたいと思っている。
パンフレットと賞状が完成したら、エボルート小倉ジムに贈ります。
当時は、無差別で32人ほどのトナメントであった、第4回日本拳法道福岡武道館大会。1回戦でどこかのでかい空手の黒帯を撃破し、2回戦で、日本拳法の細い若手に膝をつくダウンで敗北をした翌年。
第5回福岡武道館で、無差別級ベスト8。敢闘賞もらった日の事が今でも忘れられない。「健闘を讃える」日本拳法道の素っ気ない文字が、心に染みてくる年頃になった。
敢闘賞には、ただそれだけ、「健闘を讃える」で報いたい。