第4回風門祭 中量級第一試合。風門館:南VS理神陽流:小野澤
https://www.youtube.com/watch?v=4guNWaB3-Og&t=72s
風門祭も、今年で四度目(平成30年10月)を迎えた。この四度の風門祭を通して、私自身、何がやりたいのか見えてきた。だから、今年の風門祭の動画を振り返りながら、私の思うそれについて語ってみたい。
私は、風門祭を、勝ち負けが支配する、競技トーナメントにしたくない。そういう試合は、いくらでもあるので、勝ち負けに拘る人は、そういう大会に出ればいいと思っている。
しかし、勝ち負けに拘らないと言いながら、ゆるい大会にもしたくない。闘いは激烈であらねばならないと思っている。
しかも、他流試合が圧倒的に面白いと思っている。
じゃあ、風門祭の目指すところは、どこなんだという話になるが、
それが、<帰属意識>なんじゃないかなと思っている。
実は、風門祭の最大のテーマは、それなのでは?と、今年になって気づいたわけである。
では、何に。帰属するのか?それは、<日本武士道>に帰属するという意識なのではないだろうか?
風門祭は、基本。他流試合である。しかし、他流試合を闘いながら、なぜか、親密になっていく。
これは、結局。風門祭が、元来神事で有り、<大和心復興・士道精神涵養>の場として、位置づけられているから、自然に起こりえる現象なんだと思う。
要するに、流派の垣根を越えて、激烈に闘い、その激烈な気振りを神に奉納するのだから、闘っているのに仲間意識が生まれると言う、妙な現象が起こる。
流派の面子より、もっと大きなもののために闘っている。ともに。殴り合いながら。
その大きなものとは、要するに、士道精神の復興で有り、大和心の復興なんだと思う。
早い話が、闘うことによって、武舞を奉ずることによって、新しき世の、新しき侍としての、仲間意識が共有される。
危険なことをやっている仲間意識。その試合に出るために、日々どれだけ、自己を節制しなければならないか。仕事・家庭・地域。
多忙すぎる。その中で、身を削るようにしないと稽古時間が確保できない。
その稽古時間が確保できない人間は、いくら防具付きで安全性を担保しているとは言え、どつき合って、投げを打ち合い、関節を取る、こういうルールには出られない。また、稽古もしてなく、出るとしたら、そいつは、度胸があるのではなく、ただの馬鹿で有り、怪我でもされたら迷惑千万で、絶対に出て欲しくない人間だ。
だから、試合に出る人間は、出るだけでも、出るだけの準備。日々の暮らしをしているわけであるから、当然、誇りを持っている。
そう、帰属意識とは、そういう<誇りある集団の中に自分もいる。また、いることを認められている。>その喜びに尽きるのではないだろうか?
今年、風門からは、常磐丸氏が、この集団にデビューし認められた。
彼は、そのことを喜んでいる。今回の大会は、彼にとって、終生忘れ得ない大会になったはずだ。
こうやって、一人一人男を作っていく。それも風門祭の大きな役割だと思っている。
<新しき世の、新しき侍を作りたい。>それも、風門祭の大きな目的の一つで有り、その志の中に、帰属意識が生まれるのではないかと思っている。
防具付きポイント&KOルール。一見するとハードルが低そうだが、やってみると意外にえげつない。
矛盾するようだが、だから、その激烈で、一歩間違えば、危険と隣り合わせのロシアンルーレット的な世界に参加しているという仲間意識とプライドが生まれる。
そういう集団に、自分が帰属しているという喜び。
男なら、分かるはずだ。輝いてる男たちの群れの中に、自分も迎えられる喜び。
たまらないだろう。帰属意識。風門祭の重要なキーワードなのかも知れない。