福光雲母の遅すぎた青春。1994~1998年。37歳から41歳二週間前の頃のこと。
なんで、この森田童子の歌が好きだったのか分からないけど、不思議と、大会に出る前には、聞いた。歌詞&メロディ。共に救いようがないくらい絶望的なのだが、逆言うとその絶望感が良かったのかも知れない。
大会も出れば、出るほど悲惨な事故を見てきた。いつも、今までは運が良かったけど、今度は俺の番かな?とか考えて、いつも、びくびくしていた。まるっきり、体をかけた賭博。ロシアンルーレットの世界だった。
競技武道をやってる人から見ると、大げさなと思われるだろうが、私のように、普段形稽古しかしない人間にとってオープン・トーナメントとは、文字通り心の戦場であり、結果としての勝ち負けより、無事に帰還することだけが目的と言ったレベルで、気がついたら15本もトーナメントに上がってた。
一般的にアマチュアの場合、試合に出ること自体、結構、困難が伴う。自営業以外は、大概の職場では、ひんしゅくものだ。万が一入院するような怪我をしたら、辞めてもらうからとか言われるところが多い。私の仲間の中には、辞表を書いてから出場していた者も多かった。
防具付きでも、壮絶なKO!シーンがあると、ダジャレでは無いが、会場がシーンとなる。家族持ちの場合。奥さんが泣いていたりする。何とも言えない光景である。
例えルールがあって、死に合いではなく、試し合いだとは言え、デフレの真っ最中、リストラの真っ最中に、自分を確かめるために、オープントーナメントに出ることは、一歩間違えば、職を失う。つまりは、食を失い、飢えて死ぬことにもなりかねない。
家庭や仕事、との狭間で、それでも、自分を確かめたかった男達。
自分の掛けた保険金と自分の修練した腕だけを頼りに、闘い続ける男達。
よく、選手の奥さん方から言われた。男のロマンとか言うけど、男の勝手だから、うちの主人は誘わないでとか。別に私が誘ったのではなく、どちらかというと大概、私は誘われて出た方なのに。
1995年~98年。毎日が取り付かれたような日々だった。おかげで出世を逃し、未だ夢の続きを見ている。ほんと愚か者。