新音丸の家の前に、そそり立つ、この見事な山は、耳納山か?無論、新音丸が知るはずもない。
新音丸が、福光谷を出てから、もう12年の歳月がたつ。阿波徳島・筑前博多・肥前嬉野・薩摩伊集院。そして、筑後吉井。考えてみるとけっこう転々としている。
私は、この61年。福光谷から出るということがなかった。1世違えば、これほど人生も違う。そういう時に、ふと12代目を思い出す。
北部九州で行われた4度の野戦を生き抜き、その後、全国を転々とし、後には、半島から大陸へと渡ったとも言われている。
元々、豊前福光党は、豊前・豊後・筑前・筑後の山岳ルートの地図を作ることがその任の一つであった。従って、江戸期まで、九州の山岳ルートの知識が豊富であった。
12代目が、4度の負け戦にも関わらず、生き延びたのも、豊富な山岳ルートの知識があったからだ。
しかし、そういう知識も失われてしまった。職を得、芸を守ることで精一杯だった。
この山が耳納連山なのかどうか分からない。ただ、佐賀戦争や秋月戦争では、この当たりに逃げ込んだ可能性もある。
耳納連山も深い。一度逃げ込めば、山伝いに九州のどこへでも行ける。
豊前人は、同じ福岡県でも、筑後に縁がうすい。しかし、豊前香春は、添田を抜け、小石原を越えれば、筑後へも容易に抜けることが出来る。
山から山へ、風のように駆け抜けることを<天駆けの行>と呼ぶが、それを行った<風魔>の末裔としては、山の名前さえ知らないのは、恥ずかしくもあるが、こうやって、他国へ出る度、祖先の遺風を偲べることはありがたいことである。
新音丸の娘が出来たら、芸は使わずとも行者名だけは継がせたい。そして、読み書きが出来るようになったら、せめて、福光党の歴史だけは伝えたい。つらつらにそういうことを考えるこの頃であります。