日本拳法道ルールの最大の魅力は、<安全に他流試合ができる。>というところにある。
考えてみれば、空手バカ一代も、多分に、その他流試合的な要素が人を引きつけたのではないか?
しかし、もっと、言うと日本では、姿三四郎が、そういう系譜の原形かも知れない。
武道をやる以上。どこかで他流と立ち会いたいという願望は必ずあるはずだ。
しかし、一般アマチュア草の根が、極北の地的な過激な他流試合を行えるはずがない。プロとは違った意味で、アマにはアマの厳しさがある。
武道・格闘技ではアマでも、各自、社会人としての仕事上はプロである。
当然、仕事が最優先されるのは論を待たない。稽古自体、ままならない現状で武道修練を続ける。
だから、風門祭に出てくる選手も、勝ち負けに拘る選手は、基本。いない。なぜ、出るのか?それは、試してみたいからである。自分の技が、研究が、修練が、他流にどこまで通用するのか?
今年、44歳。本大会最高齢である。
しかも、日本拳法道ルールは面突きを重視するために、胴突きをあまりとらない傾向にある。
しかし、それを承知で、雷電師範は、自分の研究する技を試すべく、参加し続けている。
胴への突きに拘り、自分の研鑽した技に拘り、ゲームとしての勝敗には拘らない。そういう姿勢が、風門祭の理念で有あるから、他流ながら、最も風門祭の意味を体現していると言える。
この姿勢が、おかげで、風門の若手に大きな教育材料となっている。
肉体言語として、生き方を若手に伝える。百万言の言葉より、ただひたすらに胴突を繰り出す、雷電師範の生き様が、若手を育てる。
感謝しかない。
そして、至って真面目な雷電師範が、どんな場所でも、忍者装束で押し通すのが、また、ギャップがあって人気がある。
自分の信じた道を、自分で考え、貫き通す。そして、決して、押しつけがましくも無く。
風門祭は、そういう。各流派の生き様の展覧会でもある。
それは、美しい一編の詩で有り、肉体言語による至高の芸術である。
教育的価値。風門祭の隠れた魅力の一つであろう。