日本拳法道連盟・豊前福光派古術連盟 風門館公式ブログ

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男たちの風門祭2019 風門祭の魅力展

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私にとって、風門祭は、私の思想・理想を表現する真っ白なキャンバスであり、また舞台装置でもある。

 

激しく闘うが、ゲームとしての勝敗に拘らない。激しく闘うが、日本武士道としての美意識を失わない。

 

激しく拳を交え、身体を激突させ、投げを打ち合い。転げ回る。

 

しかし、試合が終われば、ノーサイド。たちまち交流の輪が広がる。

 

今、まさにラクビーのワールドカップで熱戦が繰り広げられ、日本中が熱狂している。そして、不思議なことに、皆、サムライの顔に見える。

 

逆説的だが、あれだけ、激しく闘うからこそ。全力で危険と隣り合わせで闘うからこそ。ノーサイドの精神にゆきつくのではないのか?

 

机上の空論で、ごちゃごちゃ言うより、魂と身体をぶつけ合うから、人としての理想の貌を得られるのでは無いか?私は、そう考えている。

 

我々、アマチュア草の根競技者もスケール・サイズは違っても、本質的には、同じだと思っている。

 

日本拳法道ルールは、防具付き・ポイント制とは言え、KOしてもOKルールである。しかも、公開他流試合を前提としている。

 

普通の感覚なら、流派の面子にこだわり、勝敗にこだわり、いがみあう。

 

私は、そういうのが嫌いだ。闘うが、なお「士道に背くまじきこと」

 

風門祭は、日本武士道の美意識の発露の場として設けている。だから、西洋的な結果が全てのスポーツ的な大会とは一風違う。

 

同じ武の道を征く者同志。各自のベースを大事にしながら、研究し、確かめる場として風門祭はある。

 

だから、終われば。ノ-サイド。私は、戦後日本の悪弊は綺麗事民主主義にあったと思っている。私の経験上、綺麗事民主主義を言う人間は、たいがい、嘘つきだった。

 

口では綺麗事を言うが、腹の中は、金のことしか考えていない。むろん、全員とは言わないが、そういう人間を多く見てきた。

 

私が、31から、この競技武道の世界に入って、未だに抜け出せないのは、存外と競技武道の世界の人間には、いい人が多いからである。

 

よくよく考えると嘘つきが少ない。競技武道には、競技武道の悪弊もあり、欠点もあるが、それを承知の上で、けっこう清々しい人が多い。

 

嘘・はったりは、コートの上ではすぐにばれる。だから、虚飾家は淘汰される。そう私は感じている。

 

長話になったが、風門祭の一番好きな所。試合後の流派の垣根を越えた。笑顔・交流。

 

試合後、あちらこちらで技術談義・技術交流が自然発生的に生まれる。今年で5回目を終えた。課題は山積みだが、年を追うごとに観客の数も増え、選手のレベルも進歩している。

 

福光流古術を日本五大捏造流儀として紹介する暇があるなら、この風門祭の笑顔の交流を取り上げて欲しいものだ。

 

結局、古術なら叩きやすい。だから取り上げる。そういうことなのではないか?人権とか民主主義とか言いながら、叩きやすい物を叩く。戦後日本の病巣に風門は、身体言語をもって今後も抗っていく。その表現の場が、この風門祭である。

 

写真上段から。1枚目。かって日本拳法道福岡武道館・硬式空手福岡県大会で二度拳を交えた秋月流の宮崎宗範と25年ぶりのツーショット。

 

2枚目 雷電流拳法代表師範 忍者雷電と秋月流宮崎宗範 

 

3枚目・4枚目 柔道三段の空手家唐武会代表 中島代表と将来プロ修斗を目指す18歳柔道二段風門館童子丸君をつかまえての寝技交流。

 

私は美しいものが好きだ。風門祭は美しいと思っている。

 

かって、堀辺師範が提唱した、「武道とは、用・美・道の三位一体」という定義が好きで、その道を理想に、今も歩いている。

 

今年、その「用・美・道」三位一体に、また一歩近づいたという実感をもった。