日本拳法道連盟・豊前福光派古術連盟 風門館公式ブログ

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風門之儀2024 風門記・列伝 福山千手丸四段(紅) 引退をかけて臨んだ一戦。第1回日本拳法道交流大会in佐賀 一般男子無差別級ワンマッチ ✕ 木村選手(禅道会熊本)

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風門之儀2024 風門記・列伝 福山千手丸四段(紅) 引退をかけて臨んだ一戦。第1回日本拳法道交流大会in佐賀 一般男子無差別級ワンマッチ ✕ 木村選手(禅道会熊本)

 

風門館・福山四段。46歳。28歳で私の門下に入門。20年来の付き合いだが、この間、色々なことがあった。

 

入門し立ての頃、一番熱かった時期に、現役を引退していた私と木霊丸師範しか集まらず稽古そのものが成立しない日も多かった。しかも、当時使用していた田川市武道館がアスベストで閉鎖。それも、再開は、向こうからの連絡待ちだったため、一年間ほど休館していた。当時も500円で指導していたので、月に電気代・場所代6000円は、私が全て自腹で払っていた。これが、私のやる気を徐々に削ぎ、蝕むことになるとは後から分かることだった。

 

私にとって、日本拳法道は他流試合をしてなんぼの流儀だったので、選手がいない日本拳法道をやる意味を見出せなかった。一人で道場の前で、ぼーっとする時間の空しさ。むしろ、閉鎖を喜んでいたのは私だった。これで、旧風門同志会第3次解散。もう武道とは縁を切るつもりだった。

 

その一年後、いろいろな出来事があって、再び、場所代のかからない・古術も併伝する風門館として無理なくやるということで、野天で稽古を再開した。これが現在の風門館の起こりだ。

 

最初は、体術・拳法もやっていたが、古術の剣術中心の稽古をしていた。その頃、北九州で鉄パイプに緩衝材を巻いた袋刀で他流試合をするという団体と付き合いがあり、私はそこで、今度は得物による他流試合にはまっていった。その当時の門人は剣道二段・三段クラスもいたので、古術式剣術もできる福山師範補・獅子丸氏など当時30代であった門人4・5人を引き連れ、鉄パイプ剣術での他流試合、総合格闘技グローブ空手ルールでの立ち会い稽古と、筑豊・北九州近辺で、出稽古立ち会い・野天での野試合にちかいことをやったりと相変わらずカオス状態を続けていた。

 

師範補も苦労したと思う。剣術をやるかと思えば、野天で、真武館の元準優勝者や、正道会館高校の部九州チャンピン。中国拳法、グローブ空手・プロレスラーなどと立ち会い続けた。

 

よく続いたなと思う。

 

本人は、日本拳法道をやりたくて入ったのだから、どうしても、日本拳法道をやりたいというので、その代わり、福岡武道館のコートに立たないと黒帯は出せないという約束の下、再び、体育館などの施設を借りて、日本拳法道中心の稽古に切り替えた。それが、15年前くらいだっただろうか?

 

しかし、案の定。日本拳法道中心になると、たちまち稽古生が減る。これが嫌だったから、私は、古術中心の風門館でいたいという部分があった。結局、日本拳法道は、元が競技武道だから、初段まで続くのが皆無。まして試合に出るまで続く人間は育たない。しかも、稽古場所を維持するためには、ひたすらに新規稽古生募集をかけなければならない。私に取って集客ほど苦になるものはない。正直、集客はストレスなのだ。

 

おかげで、ネット武道家と陰で言われてむかむかするが、しかし、稽古相手がいないと競技武道は成立しないので、ひたすら集客に走り回る日々を続けている。

 

最後の風門同志会第3次解散から、古術と日本拳法道併伝の風門館として再建するにあたって、ずっと私と歩き続けた木霊丸師範・福山師範補の二人ともが辞めるまでは、今度は私から辞めることは無いと天神地祇に誓約(うけひ)して、風門館を始めたので、二人が稽古に来る以上、私に辞めるという選択肢は無い。

 

しかし、まさか、ここまで現役を続けるとは思ってなかった。46歳、今回の大会で、怪我、もしくは危ない場面があれば、即時引退という勧告は出している。

 

彼は、職業人としても優秀で有り、かつ、忙しい。平日の勤務は、夜出稽古などにいける余裕などない生活を送っている。

 

今回も、負けた後、書くと言い訳になるので、伏せるつもりだったが、幸い勝ったので、書ける。試合前、2週間前に手術をしている。手術そのものは短時間だったそうだが、血尿が出たり、縫い目から出血があるので、1回だけ、直前に稽古を休んだ。私は、ドタキャンになってもいいから欠場しろ言ったのだが、計画線ですからと言って、どうしても出ると言うので、もう四段だし、最終的に、私が口を挟むことではないので追認した。

 

私も、1990年代、当時としては、31歳という遅咲きの競技武道デビューだった。10年間で、トーナメント15本。公式戦44戦を闘ったが、ドタキャンとか、トーナメン中にリタイアとかは一度も無い。そう、門人も育てているので、風門館でドタキャンをする人間を出したことが無い。ドタキャンするくらいなら、最初からエントリーするなというのが風門の掟だ。

 

しかし、今回ばかりは、ドタキャンを勧めたが、想定内ですからと言ってどうしても譲らないので、仕方なく追認した。

 

無事に終わって良かったが、万が一を考えると私の方が不安で仕方なかった。

 

コロナで三年飛ばしているので、どうしても福岡武道館で有終の美を飾りたい気持ちは分かる。また、そうであって欲しいが、万が一の事故は避けなければならない。

 

週一回、2時間の稽古で無事に済むような競技では、そもそもない。本人もよく分かってはいるのだが、仕事が忙しすぎて出稽古にいく余裕が無い。

 

また、通常の稽古も、風門館の平均年齢49歳では、どうしても護身用の稽古が主体になり、競技専門の稽古をする場所でも無い。

 

第35回大会に向けて、無事帰還させるために、最善の手は尽くすが、首対策までは、手が回らない。その点の具体策は伝授しているので、福岡武道館へ出たいなら、そこは後、4ヶ月何とかやるしかないだろう。

 

話しは長くなっているが、私が、日本拳法道ルールの何を恐れているのかをここでまとめておきたい。

 

私は、首の骨折を恐れている。ルール上、居反り系の技は禁止となっているが、選手・指導者を含め、見解が違い、ルールをどこまで把握してるのか曖昧なところがある。また、最も怖いのが、膝付き背負いと膝付き肩車だ。これは、ルール上、完全にOkでる。また、裏投げも、バックドロップは禁止だが、横に捨てる裏投げは禁止ではない。払い腰や内股も頭から落ちていく場合怖い。

 

私の首への恐れを、未経験者・立ち技系・組み技系の誰もが不思議がる。まず、未経験者・立ち技系は、柔道・アマレスとの他流試合経験が無いとこの恐怖は理解できない。

 

私は、過去。福岡県警の逮捕術の選抜選手二人と闘ったことがある。どちらも柔道四段、体重80K超で、大外刈りを喰らった時、恐怖以外の何物でもなかった。当時、体重64Kの私は紙くずに等しかった。

 

また、真武館では日体大柔道部OBで、27歳・柔道四段・空手二段と闘ったが、その年の国体福岡代表だからばりばりの現役だった。後で聞いたら、関節技の鬼の異名を取る人だったらしいが、あっという間に腕絡みを極められ、肘がバリバリと鳴った。

 

もう一人。元プロレスラー秋月流柔術宗師範とも闘ったことがある。

 

未経験者・立ち技系で、私が首を恐れるのを笑う人たちに言っておく、まず柔道・アマレス系と他流試合を5本以上してから笑うなら笑えばいい。しかも、県警逮捕術の選抜組みとか日体大OBとかの柔道の専門家と5本以上闘って、たいしたことがなかったと言うなら話しを聞くがやったことない人間の話しを私は聞かない。

 

また、組み技系の人は、自分が受け身が取れるから、私の恐怖が理解できないようだが、まず立ち技系の受け身レベルの実態を知らないからだと思う。また、日本拳法道ルールは、打撃6・投げ3・寝技1となるよう設計されている。従って、まず打撃戦から入る。とうことはどうなるかと言うと、柔道・アマレスより、腰が立った状態でクリンチになる。従って、柔道・アマレスより、投げが極めやすい。むしろ、理想の柔道が起きるのが日本拳法道ルールだといえる。風門館小倉道場の獅子丸二段は、柔道二段でうちに来たが、彼の払い腰はすさまじく、投げられた側は、頭が真下、足が空という180度回転していた。このまま落ちたら死ぬと思ったが、受け身の取れる人ばかりだったから、幸い何事もなかったが、その頃から、首への心配がいよいよ増大した。

 

私は、この36年間で、のべ800人を教えたが、そのうち、柔道初段以上を持った人間の入門は3人しかいない。

 

他は、未経験者か、立ち技出身者だ。風門館は、事故を起こさないと言うことを自慢しているが、それはそうだろう。未経験者・立ち技系出身者で福岡武道館のコートに立ったことがある者は、私・福山四段・木霊丸師範のわずか3人しかいない。

 

だから、事故が起きる確率も低いのは当然のことだ。

 

打撃でも事故は起きる。しかし、そこは防具があるから、手足の骨折、もしくは顎の陥没などで最悪手術で済む。首が怖いのは、生涯首から下は、麻痺することになりかねないからだ。それを、私は恐れている。

 

46歳の時、私は、非常に特殊な腰椎狭窄症を発症して、大腰筋を13針か15針切り開く10時簡に及ぶ大手術を経験した。

 

飯塚のせき損センターに入院したのだが、そこで、ありとあらゆる事故・スポーツ傷害の実例を見てしまった。

 

特にラグビーでの事故の生々しい実態を見てしまったので、それ以来、首への恐怖が消えない。

 

風門館でも、試合に出ない護身組であろうと受け身の修練は必須としてやっている。しかし、護身用と競技用では、稽古の量と質が違ってくる。

 

福岡武道館に、そもそも、週1・二時間の稽古で立つことが、非常識なのである。福山師範補の場合。その代わり、ほぼ18年ほど、週1・2時間ペースを休まずに稽古に来るという蓄積があるから済んでいるが、46歳という年齢を考えると、どうしても出稽古で首対策は必須だ。

 

首以外なら、風門の現在の稽古でも、大丈夫だ。幸い、私の育てた風門館・青龍隊は、50歳前後で、5人いるが、打撃に関しては腕が立つ。スパーリングパートナとして、十分すぎる。

 

首対策さえ出来れば、後はそれなりにやれるという感触を持っている。

 

長々書いたが、試合内容は良かった。相手の選手は、フルコン出身。総合には慣れていないと聞いていたが、でかくてパワーがありそうだったから、正直勝てるとは思わなかった。特に最初に蹴りでぶっ飛ばされた時は、ヤベーと思ったが、あれがなぜ1Pにならなかったのか?審判の反省材料ではないだろうか。

 

逆に白の面突き1Pも理解できない。私なら軽いからと取らない。最初の蹴りは取っている。

 

今回、一番素晴らしかったのは、やっと風門流蹴手繰りローキックで、相手を転倒させたこと。あれこそ、私が、最も好む技で、普段から護身用・競技用として仕えるから教え続けてきたのに、やっと試合で爆発した。しかし、転倒させた後の処理が遅すぎて、有効1を取れないのが彼の詰めの甘さだ。倒れた相手へは、頭側へ回るよういつも稽古しているのわざわざ足側に回るなどまだまだ詰めが甘い。普段の稽古の意味が理解できていない証拠だ。もう一度、そこらあたりの詰めを集中してやりたい。

 

もう一つは、直面突きが決まったこと。宗家の面前で極めたので、最も日本拳法道のDNAを最も色濃く受け継いでいる風門らしい一撃で面目躍如であった。

 

今回、私が、審判を突然することになって、カメラ、セコンドとあわてふためいて、4Kがピンぼけになってしまうという痛恨のミスを起こしてしまった。

 

タフスの松田先生から、この動画をいただき、運が良かった。人手が少ないことが、結局、こういうことにつながるので、嫌で嫌で仕方ないが、また、集客のために走り回るしかない。

 

風門館も難しいところがある。日本拳法道連盟の看板を掲げながら、選手希望者はいないから、護身用の稽古になる。私も、個人的には、護身用の稽古が好きなので、護身専用で構わないのだが、日本拳法道そのものは、競技武道であるから、大会に出ることが本来なら前提となっている。

 

護身・健身目的のクラスの人に、大会運営への参加を頼むのは無理があるし、かといって選手クラスには人が集まらないし。

 

少年部を失ってから、もう、24年間、この回答無き迷路を彷徨っている。全員、護身組みなら、全く問題ないのだが、福山四段のように、福岡武道館での他流試合に自分の人生を賭けた人間もどうしても生まれてくる。日本拳法道連盟の設立そのものが、そもそも、安全に他流試合するためが結成の基本コンセプトだから、看板に偽りがあってはならないことも事実だ。しかし、そういう人間は希少生物だ。

 

かって、1990年代。私がまさしくそうだった。

 

その後、絶えたので、ゆっくり護身でやればいいやんと思っていたら、まさかの、そのDNAが2010年以降、こんな他流試合モンスターを生むことになるとは。

 

いよいよ、11月。第35回福岡武道館大会決戦。風門の最後の幟を立て、美しく・激しく闘い、無事に兵隊を帰還させる。それが、私の最大の仕事である。

 

1990年代の10年間、私が福岡武道館のど真ん中に風門の幟を立て続けた。そこから15年の空白を経て、獅子丸二段が最初に風門の幟を再び立てた。それ以降、福山師範補が幟を守り続けた。もう十分だと思う。

 

俺たちはよくやった。田舎の無名・痩せ道場にも関わらず、九州豊前田川に風門有り。じわじわ、総合系武道の中に知れ渡りつつある。

 

長く翻した風門の幟を引き挙げることには、一抹の寂しさがあるが、集客が絶望的に下手なんだから仕方がない。

 

師範補をこの世界に引き込み、今は俺が振り回されているが、この20年間。やはり楽しかった。色んな流派と付き合い、色んなルールで立ち会った。俺と師範補二人とも強い選手でもなかったが、俺たちみたいに徒手から鉄パイプ剣術まで幅広く闘ったのは、あんまりいないと思う。

 

福岡武道館まで、後4ヶ月。佐賀のひと戦をいい感じで終わらせたので、最後の闘いへ向けて、俺は俺で、集客・運営・指導を続け、師範補の技術的な穴を埋め続ける。

 

師範補もまた、首を徹底的に鍛える単練を続けなければならない。首の単練そのものは、家で出来る。今でも十分してるが、46歳という年齢は、どうしても反応が鈍る。競技武道の世界では、コンマ1秒の微妙な差が、全体を狂わす。相手との闘いだけではない、仕事との闘い・加齢との闘い。

 

最悪首から落ちても折れない首を作るのは、競技者の仕事だと思う。

 

風門館最後の幟旗。いい試合にするつもりだ。