https://www.youtube.com/watch?v=cEMv4_bhHRU&t=3s
護身と言うと、個々の制敵事案・技法を指すことが多いが、私の考える護身は、もっと広い意味で使っている。
風門館は、<護身・健身・修身の三位一体を図る。>ことを目標として活動している団体である。
その中で、護身と健身はイメージが湧きやすいが、<修身とは?>と思う人が多数だ。道場では、あまり哲学的な話しをしないので、時々、こうやって、ブログに書くことで、私の目指す護身とは何かを伝えている。
私の言う、護身のうち、まず必要なのは、食うことである。<職は、食に通ずる。>と言う言葉があるが、食えない達人は、存在しても、意味が無いし、また、物理的に食えないなら、衰弱して護身技法どころの話しではないだろう。
だから、まず、職を確保し、食を確保すること。これが、護身の第一義だ。
食を確保したら、家族を養わなければならない。そのためには、修身が必要となる。
古術では、そのことを<家守の芸>と呼んだ。
現代人には、<家守の芸>という言葉が伝わらないので、仕方なく護身と言う言葉を使っていろいろと説明することになるが、武道修練の究極の目的は、<修身斉家>にあると私は考えている。
と言うよりも、修身が出来ていない人間は、武道を続けることが出来ない。だから、強い・弱い・上手い・下手とかいろいろあったとしても、長く続けている人は、
大抵、<修身>が出来ている。
私の武道界隈の暮らしも半世紀を越えたが、武道をする人間で、賭け事をする人間を見たことが無い。例外はあるだろうが、私の経験上は、無い。
<飲む・打つ・買う>と言われるが、<打つ>が、最悪だ、賭け事というのは、基本、儲からないように出来ているし、怖いのは、のめり込みやすいことだ。賭け事で借金をして、破綻した事例を誰でも身近に知っているだろう。
だから、私の言う、<修身>は、まず賭け事をしないことにある。道場に人を誘うときも、パチンコによくいく人などには、声をかけない。パチンコ好きで、貴重な休日に道場に来るような奇特な人はいない。いたとしても、関わりたくない。
家を守るための必須条件が、賭け事をしないことだ。
福光党は、江戸期、農耕用の子牛を肥育し、成牛として売ることで財をなした。
子牛をせるのだから、元来相場を張るが、だからこそ、逆に賭け事をする人間には、一切、後を継がせないという掟があった。
では、どうしたら、そういう駆け事好きを排除できるのか。実は、そのために、芸法修練があった。
子供の頃から、賭け事好きは、芸法修練を嫌うと言うのが、福光党の家伝である。
私の長い武道経験からも、当たっていると思う。
修身と言えば、他にも多くあるが、聖人君子を目指しているわけではないので、多少のことはあっても、週一回稽古に来れる。
そのことで、既に、修身がなっていると私は思う。特に、我々アマチュアは、本業が全てだ。武道稽古は、あくまでも趣味・道楽の類いだ。
しかし、自分の出来る範囲で、芸法修練を続けることは、修身が出来ていることの一つの証であることは間違いない。
己の生活を成り立たせ、家族を養い、日々里の行に励む。その経済的に独立した、自律的な個々人・家族の集合体が、国家を形成することで、治安の悪化を防ぐことが出来る。結果としての平天下は、砂粒のような個々人の修身から始まるのというのは真理だ。
冒頭の動画は、昨年の風門祭における千木丸初段の激闘を記録したものだが、やはり激しい。
この試合を49歳でやるためには、修身なくしては果たせない。
書物の上で、武士道を学ぶのは、容易だが、畳の上で学ぶのは、胆力と地道な稽古が必須である。
その地道な稽古を続けるためには、<修身>がなければならない。そして、芸法修練を長く続けていれば、やがて、最大の護身とは、治国にあることも理解できてくる。
従って、本を読み、<治国平天下>のためには、己に何が出来るのかを考えざるを得なくなる。
芸を練り、書を読み、思考し、行動する。その時点で、人は武士となる。私は、そう考えている。
風門館は、武芸者を作る道場では無い。それは、達人や名人がやることだ。
しかし、無名の草莽であっても、細石の一つとしてのサムライになることは出来る。
芸者を作るのではなくサムライを育てたい。それが、風門館運営の一つの動機である。
風門館事務局 0947・32・3550 代表福光まで。