諦念・絶望・怒り・憤怒・失望・諦め
一体何があったのか?どんな状況で詠んだのか?背後の事情は知らないし、知らないまま、この句そのものを味わいたいという気分と、詠まれた状況を知りたい気分とない混ぜである。
俺も、死ぬときは、こんな気分なんだろうか?とつい思ってしまう。
まあ、しかし、やりたいことは、一通りやって、やり残したことと言うのが、ほぼない。
自分の理想・現実・力の限界・可能性。
若い頃やりたかったことも、形は変わったが、一通りやった。経済的に不自由しているわけでもないし、
考えてみれば、里山の自分の私有地から、ほぼ出ること無く、一日が終わり、鍬を打ちながら、やはり、古術の太刀構えは間違っていないとか考えながら日々を送っている。
さながら、昔の剣豪小説などに登場する、達人の晩年に近い暮らしをしている。こういう雰囲気に憧れていたら、達人にはなれなかったどころか、凡夫のままだが、雰囲気は掴まえている。
「この部屋から東京タワーは絶対に見えない」という世界観とは真逆だが、こちらの方が性に合っている。
無念さはある。執着もある。
自分の世界観が、受け入れられない現実に押しつぶされそうだが、かといって、変える気にもならない。
俺の死に際は、どうなるんだろう?やはり、この句のような、諦念と怒りで死ぬのか?
あるいは、満足して死ねるのか?
33年、闘ってきた。正直疲れてる部分はある。だが、諦め切れない気分もある。
風門ファイトと叫んだのが頂点で、翌週には、絶望の淵に落とされた。これを、33年間繰り返してきたから、またか、の一語に尽きる。
また、一からやりなおし。人集めから始めなければならない。
この人集めに一番時間と金がかかり、労多くして益少なし。なんだが、自分の世界観を守りたいなら、やらざるを得ない。
最後まで古術者であることに迷いは無いが、日本拳法道を守るのは疲れる。気分が落ち込んでいたが、過去、何度も絶滅の危機にひんしながら乗り切ってきた。
小なりと言えども、一国一城の主にさせてもらった恩は忘れがたい。嫌な思いもしたが、いい思いもした。
焼き捨てて日記の灰のこれだけか。
そういう最後になるのかも知れないが、また、一から仕切り直して、歩けるところまで歩くしかないだろう。