日本拳法道連盟・豊前福光派古術連盟 風門館公式ブログ

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武士道とは何か?風門館修養訓。<身を以て仁を為すこと。>

https://news.livedoor.com/article/detail/21204778/?fbclid=IwAR3mi218Mf6VhIGD03rmGKRfa2MZfMNcQ18xRBtYbydf2RVVTWoMnxHP3L8

 

15日、福島県のJR福島駅前で、女性が刃物で切りつけられた事件。逮捕された男は、無差別に人を襲った可能性があります。男を取り押さえたという男子高校生が、その時の様子を証言してくれました。

容疑者を取り押えた高校2年生

「僕がこう馬乗りになって、ここに刃物が2つあったので、刃物をまずここら辺にどけて」

事件直後の映像には、横たわる人物の手前に刃物のようなものが映っていました。

容疑者を取り押えた高校2年生

「警察が来るまで5分弱ぐらいだと思うけど、犯人を押さえてました」

15日、傷害の疑いで逮捕されたのは、無職の高橋清容疑者(69)です。被害にあった女性は「男と面識はない」と話していて、無差別に通行人を襲った可能性が高い

 

風門館修養訓に、<身を以て仁を為すこと。>と言うのがある。これが、一番難しいことと承知の上で、稽古の最初に唱える修養訓5箇条の最後として、必ず唱和する。

 

意味は、<己一身の身を以て、人に仁を為せ。>というところにある。

 

現実には、難しい。今回のような事件がある度、週に1度、二時間程度とは言え、半世紀以上芸法修練を練ってきた己に自信が無い。

 

刃物相手なら、自分が刺されると同時に、相手の急所を攻め、孫を逃がす。

 

それが、今現在、私が、芸法を修練している最大の目的である。そのため、週1回欠かさず稽古に出ている。

 

しかし、赤の他人を助けるとなるとどうか?正直悩む。赤の他人のためには死にたくないという保身と同時に、武士としてどうなのか?

 

最も、私は、武士ではないが、やはり、日本人のある種の憧憬の典型としての武士に憧れて、今日まで芸法鍛錬を行ってきた。

 

武士になりたい。武士でありたい。その願いは、確固としてある。それがなければ、武道を長くは続けなかったと思う。

 

では、その武士とはいかにあるべきか?

 

最近、頻発している無差別刺傷事件の際、逃げろ。逃げろ。という言葉があふれかえっているが、その結果として、女性や老人が被害に遭っている。

 

これは、アフリカの草原に似ている。シマウマを襲うライオンは、逃げ惑う群れの中から、逃げ損なった、子供・老いたもの。など、必ず弱者を襲い、食らう。

 

弱者は食われるのが、自然の摂理と言えば、それまでだが、それだと、弱肉強食の世界を肯定したことになる。

 

それで、本当にいいのだろうか?逃げろ。逃げろに。どこか、不快感を感じてしまうのは、私が、逃げることもできない弱者だからかも知れない。

 

それにしても、この高校生。勇気がある。

 

しかし、こういう人が出てくると、ますます、武士道とは何かが問われることになるから悩ましい。

 

半世紀以上も芸法修練をして、万が一の際、高校生が、<身を捨て仁を為さん>とする場面に出くわした時。

 

私は、どうするんだろう?

 

逃げろ。逃げろ。と世の中の的に言ってるから、私も逃げましたと言うのは簡単だ。しかし、逃げずに、仁を為す者を、捨てて逃げたとしたら、私は、武士ではないだろう。

 

芸法修練をやめざるを得ないだろう。しかし、武士として、いや、武士に憧れている非力な凡夫として、共に戦い、運悪く、腹を刺されたら。

 

後悔するのかも知れない。

 

悩ましい。

 

<武士道とは、死ぬことと見つけたり。>と机上の知識として言うのは簡単なことだ。

 

問題は、知行合一ができるかどうかにかかっている。そこが、難しい。ふう。

 

臆病な私は、こういう時、歴史小説に逃避することにしている。