https://www.youtube.com/watch?v=OsSJukunjdA
これも、私の体験から来ている。
私が、木立先生の門下に入ったのは、1989年4月。ちょうど31歳になったばかりの時であった。
その頃、既に、沖縄小林流のM先生の門下で有り、同時に合気会のS先生の門人でもあった。
その年、私の社会人・人生の中で、最も暇というか。6時には、仕事場を出られるという奇跡の一年間であった。
だから、その年が、人生の中で、一番稽古したと言える。木立先生の門下に入る前に既に、その年の第四回日本拳法道福岡武道館(第4回セイフティ格闘技選手権)に出るつもりであった私は、空手仲間やら、知り合いの中学生・高校生(剣道・柔道・ボクシング部などの現役選手)を集めて、既に同好会を作っており、日本拳法道ルールでの乱取りをバンバンやっていた。
その年、一年間は、自分の指導する同好会が週1・木立先生の指導を受ける日が週1日。空手が週2・合気道が週1.5日練習して、後の二日は、ウエイトをやっていた。
しかし、そういう奇跡の一年間が、永遠に続くようならサラリーマンに悩みはないだろが、そうはならないのが、現実である。翌年からは、またしても、仕事ハードな日々に舞い戻った。
当時空手が、月4000円。合気道が3000円。日本拳法道が3000円で、月1万道場代に払っていた。
しかし、好きなことをやっているわけであるから、月1万と言うのは、高いとかは思ったことがない。
ただし、それは、稽古に行けていればと言うことであって、仕事がえぐいときはどうしても、どこかを削らなければならない。
だが、月謝制だとその月に一度も出席していなくても、翌月は、2ヶ月分払わなくてはならない。稽古に通っているときは、負担を感じないのだが、一月休んで、翌月に二月分だとものすごく負担に感じた。
特に、空手は、月4000円だったから、一月休むと月に8000円の支払いになる。
これが、二月休むと、1月の月謝が12000円となる。週2回・一日1時間の稽古で、12000円は痛かった。しかも、平日は6時から7時だったので、まず行けることがほぼない。
そうするとどうなるかというと、結果として、3ヶ月ほど休部させて欲しいと言う話になって、稽古が進まないという現実が生まれてしまう。
1989年10月。第4回大会無差別級でどこかの空手の黒帯を撃破し、1回戦突破したのを契機に、既に起ち上げていた同好会を、正式に日本拳法道田川同好会として、木立先生の直属の元、私が代稽古をするという形にした。
それが、現在の風門館の始まりである。
その際に、それまで、無料で運営していたのを、100円でもいいから金を取るようにと言われ、場所代や防具代・ミット代に当てるために、少年も一般も一律500円で、稽古とした。
以来、32年間。風門館は、1レッスン制に拘って運営している。現在は、人数が少ないため一人700円もらっているが、場所代込みであるから、私の指導料は500円である。
来たとき払いのこの500円を高いと思うか、安いと思うか。たかが1コインだが、そこには、ある種の緊張感が生まれる。
もらう側からすれば、たいした額でもないが、払う側からすれば、場所代込みの700円は、月4回来れば、2800円となり、田舎の空手道場の値段とさほど変わらない値段となる。
私の芸力・指導力・道場運営力に、1コインを払う価値があるのかどうか?それを決めるのは門人だから、そこが、私と門人との勝負と言うことになる。
かって、木立先生が、ただは絶対駄目だ。100円でもいいから金を取れと言った意味が分かるようになるまでには、かなり時間がかかったが。
金を取るというのは、教える側に責任が生まれると言うことだ。1コインであろうとその1コインに相当する満足を与えられなければ、門人は去って行く。
そのために、私も常に技の研究を怠らない。
さて、話しが余談になったが、風門の1レッスン制は、忙しい社会人がいつ来てもいい。いつでも、来られる環境にするために考えられたシステムだ。
私は、常に、かっての私のような人間、つまり、一般人ほどの体力も無いのに、武道が好きで、しかし、仕事でいっぱいいっぱいと言う人を対象に風門を運営している。
それが、常に、風門の原点なのである。
続く。・・・ほんとに続くのかな?と考えつつ。2021・7・10
冒頭動画の説明:画面では1991年となっているが、設定ミスで、1990年11月に撮影したもの。
第5回日本拳法道福岡武道館(第5回セイフティ格闘技選手権)2回戦の様子。カンターで胴突き1P・直蹴り1P。カウンターが得意だった。勝っている方が私。この頃は伝統派的な動きをしており、場慣れしてないのがよく分かる。32歳。二度目の大会であったが、元々が形稽古の出身なので、競技武道に出るのが怖くて仕方の無かった頃である。
この当時は、体重無差別で30人規模の大会だった。トーナメント表の一番左が、体重最軽量で、体重別に右へと並び、一番右端が体重最重量。よくできたトーナメントだった。
ただし、勝ち上がると90K台の重量級と闘うはめになるので、防具付きでもけっこう事故が起き、緊張する大会だった。
この年、3回戦まで進出し、ベスト8・敢闘賞を頂き、二段に昇進した。
防具も、模索中で有り、アルファ面・スーパーセイフ面・日本拳法の鉄面も許されており、全てがアバウトだった。大会がオープントーナメントであったため、ほぼ、前面他流試合というなかなか危ない闘いが多かった。
特に、相手の選手より、どすの効いた声のセコンドが怖かったですわ。