本日、1分間の総合格闘技Breaking Downに出場して勝利することが出来ました。2018年11月11日、鹿児島で自主開催した格闘道イベント「敬天愛人」以来の真剣勝負。この緊張感は逃げ出したくなるぐらい苦しくて、でも試合の場でしか試せないことがあって、表現できないことがあって、学べないことがあって、そして試合の後には良くも悪くも違う景色が広がっている。この新たな世界で、また今ココを積み重ねていきたいと思います。誰ツヨDOJOyもこどもヒーロー空手教室も益々パワーアップしていきます!対戦して頂いた野尻選手大会を開催して頂いた皆様応援頂いた皆さま有難う御座いました。試合前からミットを持って頂き、セコンドをして頂いたルタさん、有難う御座いました。(ルタさんミットはスネークピットジャパンで持ってもらえます)写真は僕を10年以上撮り続けてくれている写真家の藤里一郎先生が張りつきで撮ってくれました。有難う御座いました。ゴンカク記事
試合というのはまさに試されるわけで、プロ選手は自分の人生に⚪︎×をつけられる。アマチュア選手は怪我をしたら日常が壊れる。この緊張感は逃げ出したくなるぐらい苦しくて、でも試合の場でしか試せないことがあって、表現できないことがあって、学べないことがあって、そして試合の後には良くも悪くも違う景色が広がっている。この新たな世界で、また今ココを積み重ねていきたいと思います。
その直後の菊野先生の言葉が、我々、アマチュア草の根にとっても、試合の意義と怖さを知る上で、感銘を受けたので、そのまま引用・掲載させてもらった。
正直に言うと、過去、私は、格闘技の選手にあまり良い印象を抱いていなかった。何故かと言うと、かなりの頻度で、強さ自慢をする人が多く、我々のような市井に暮らす凡夫に対して上から目線でものを言う人に出くわす機会が多かったからだ。
当たり前の話しだが、我々のような草の根アマチュアが、プロ選手に勝てるはずなどないのに、なんか。ぐいぐい。俺様自慢をされてもと言う気分を何度か味わったことがある。
例えば、野球で言うと、我々、風門は、甲子園に出ることなど、冗談に過ぎないどころか、部員9人ギリギリ。地方大会に出るのさえ、四苦八苦している田舎の公立高校野球部に等しい。
そういう我々に対して、俺様感満載で、俺はプロだとか。どこそこの大会のチャンピオンだとか、ひたすらに自慢されても、いただけない。格闘技や競技武道の選手が、その道でいかに強かろうと、弱者に対しての配慮が出来ない人格ならば、人としては、尊敬できない。
ちなみに、全員がそういう人ではないことは言うまでも無い。腰の低い、立派な人が多いのもまた事実であることも付記しておく。
ところで、話しは戻るが、一昨年、唐津の唐武会が、菊野先生を招待するという快挙を成し遂げた。講習会を受けた後、宴席で、色々とお話を聞く機会に恵まれたが、腰の低さに驚くとともに、これからの、日本の格闘技界や武道のあり方など、常日頃、我々が、思っていることと同じ事を話されていたので、我々の方向性は間違っていないと言う確信を持つことができた。
とにかく、世界を見てきた菊野先生の言葉には、重みがあった。また、プロとして食っていかなければならない、その必死さに、世界を知っている人の迫力が、気持ちよく、ぐいぐい来て。良い思い出となった。
私は、巌流島に関心があり、その関係でプロとしての菊野選手を知ったわけだ。そして、ただ、一度食事を共にしただけだが、人格の上でも、プロ。こういう人こそ、理想のサムライだと感じ、以来、沖縄風に、「武士・菊野」と呼ばせてもらっているし、また、勝手に菊野先生と呼ばせてもらっている。
今回の大会にも度肝を抜かされた。元力士上がりのプロ格闘家。体重差45Kは、さすがにと思ったが、見事勝利されて、また、一つ菊野先生の伝説が紡がれたと思う。
引用中にもあるが、「プロ選手は自分の人生に⚪︎×をつけられる。」
重い言葉だと思う。プロとは、職種の種類に関わらず、結果が全てだ。意気込みとか自分の志とかがいくら立派であっても、結果が出せなければ、「×」をつけられる。プロ格闘家が強いのは、生活がかかっているのだから、ある意味当然と言える。
まして、菊野先生のように、世界の頂点を見てきた人には、見える世界が違うのは当たり前のことだろう。ヒマラヤを登った人にしか、そこに至る道は分からない。それが、私の持論だ。無論、私は、ヒマラヤはおろか日本アルプスを登ったことすらない。
アマチュアとして、プロ・アマ混合で戦う、真武館の全日本格闘技選手権に一度出たことがあるので、自分としては、冬の九重山に登ったことはあると言えるのでは無いかと思っている。
菊野先生の凄いところは、こうやって勝った後も、
「アマチュア選手は怪我をしたら日常が壊れる。」とアマチュアへの配慮を忘れないところにある。
どんな競技もそうだが、アマチュアの裾野が広くないとプロ競技は成立し得ない。
今後、プロ格闘技が、どういう方向へ進むのか分からないが、残酷さを売り物にする古代ローマの見世物的なショービジネスではなく、野球やサッカーのような、アマチュアがあって、その延長線上に頂点としてプロが君臨している。そういう方向性を我々としては願っている。
菊野先生なら、それをかなえてくれるのではないかと今後も期待したい。
また、我々、草の根のアマチュアは、ゲームとしての勝ち負け以上に
「アマチュア選手は怪我をしたら日常が壊れる。」という重い現実を念頭に置きながら、試し合いで、最低限、いかに無事に帰れるか。そこを重視した稽古をしなければならない。
ルールと防具で守られているからと舐めてかかるととんでもない事故が起きる。そして、その事故を目の当たりにすると、威勢の良かった人間が、結局は辞めて行く。
アマチュアには、アマチュアの厳しさがある。私が、試合に拘るのも、逆説的だが、試合経験の無い者ほど、物事を単純に考え、事故を軽視しがちであるからだ。
「試し合い」と言うが、菊野先生の言うように、「試される場」でもある。
また、
「でも試合の場でしか試せないことがあって、