「それ剣道の要は。多数の子弟を教養して、国家を捍衛せんとするにあり。」
北辰一刀流の創始者。言わずと知れた幕末の剣豪。千葉周作の言葉。
私も、まったく同じ考えで、指導している。幕末。黒船の脅威が、今そこにある時代に生まれた流儀の根底の精神として感慨深いものがある。
銃器により、刀槍が野戦の芸法として役に立たなくなった時代を見越して、それでも、武道の果たす役割について、その本質を述べたんだろう。
天才故の本質を見極めた言葉だと思う。
剣術では無く、「剣道」と言う言葉を使っている所に、既に、何を見極めていたかが偲ばれる。
「武道」と言う言葉を使うとき、人によって、定義が様々で、困惑する。武術の意味合いで武道を使う人もいれば、スポーツ的な発想にも関わらず、慣習的に武道という言葉を使う人もいる。
なぜ、武術では無く、武道なのか?
なぜ、格闘技ではなく武道なのか?
そういう言葉の定義無く、漠然と武道という言葉を使い、かつ、風門に批判的なコメントを入れてくる人にうんざりする。
私は、他流の批判をしたことはない。常に、風門に取って、「武道」とは何かを説明しているに過ぎない。
考え方が違うから、流儀が違うのだというのが、私の持論である。
風門は、風門。そして、風門に取って、「武道」とは、
「それ武道の要は。多数の子弟を教養して、国家を捍衛せんとするにあり。」というところにある。
千葉周作の剣道を武道と置き換えれば、そこに私の考える武道がある。
今から、150年ほど前か?日本の国体は存続の危機にあった。そのおり、千葉門から多くの志士が輩出されたのも、
つまるところ、千葉周作の剣道修養の根本思想にあったのだろうと思う。
歴史は繰り返す。
私は、門中に、私の考えを押しつける気は無い。護身も大事。健康も大事。
しかし、私にとって、いや、私が、格闘技でもなく、武術でもなく、
なぜ。武道として、風門を運営しているのか。その理由について、知っておくのは無意味では無いだろう。
各種格闘技、もしくはボビナムなど異国の武術と交わりながら、風門は、常に風門である。その、根本は、千葉周作の考えと私が同じだからぶれないのである。
風門が、武術でも無く、格闘技でも無く、あくまでも、「武道」に拘る所以である。