修身斉家治国平天下
これが、風門の芸法修練の究極の目的である。入り口は、護身であっても、健身であってもよい。しかし、芸を練るにつれ、修身の意味を悟り、家を斉え、もって、国を靖んじ、五穀豊穣・天下泰平を祈る。
そういうつもりで、私は風門を運営している。
その修身の行の一環として、他流試合を位置づけている。風門の場合。試合は、文字通り試し合いであって、修験の覗きの行の感覚に近い。
それは、一年間の自分の修行の成果を試す場所であり、また、その一年、身を修めきったかどうかを問うための場所である。
市井に暮らす凡夫である我々のような、草の根修行者にとって、食うために、また、家族を養うために、仕事が最優先である。今時、何をしても楽な仕事はない。超過勤務はもはや日常茶飯事であって、8時間労働と言う意味さえ知らないのが現状である。仕事が生活の場で有り、また、それを続けることが最大の苦行とも言える。
その上で、さらに、自らに苦行を課す。防具付きとは言え、年二回の公開他流試合に、出るためには、己を律するしか方法が無い。
当然、週一回の稽古が出来ない者は、試合に出るとは言わない。
防具だからと甘く考えているととんでもない事故が起きる。日本拳法道ルールは立ち関節も許されているし、投げもOK。ヒールホールド以外の足関節もOK!ルールである。
事故は打撃でも起きるが、実は、立ち関節と投げで起きやすい。
危ないから稽古する。稽古するためには、酒を飲んだり、女遊びをしたり、博打を打つ暇などない。
リーマン修行者に、平日の稽古は厳しい。平日は、8時に終わればいいほうではないだろうか?繁忙期に至っては、午前様帰宅は当たり前のようにあった。
その中で貴重な休日の午前を稽古に振り向ける。その時点で、修身はなっていると言える。それを何年も続ける。言うはたやすく行うは難し。
風門館千手丸三段。風門祭だけでも7回。日本拳法道福岡武道館に今年で5回。41歳。
書斎で修身を学ぶのも良かろうが、競技武道で身をもって、修身を行ずるのも良い。
個人的には、書斎人の修身をあまり信用していない。弁舌の徒なら、ある意味誰でもできるからだ。百万言を弄するより、年に一試合する人間に信を置く。
それが風門的な価値観である。