豊前福光派古術相伝第十三代は、与五郎さんとなっているが、この人は、早世している。しかも、酒飲みで、仕事もろくにせず、芸法・言振りともろくに、できず、覚えずで、名前のみの相伝者である。
恥をさらすようだが、明治の末から大正頃になると、豊前福光党は、人材が出ず、どんどん剥落していく。しかも、豊前福光党総領家・本田家ともなかなか出来ず、男系維持にがやっとの有り様だった。
十二代目猪之吉さんは、西南の役の負け戦の後、九州の山地で逃亡生活を送りながら、やがて、自由民権運動家として生涯を送った人である。当然、そのころ福光の名は名乗らなかったことは言うまでもない。
また、生涯妻帯せず、子も無かったと言われている。
ただ、この時に、一人の若者を内弟子ように連れて歩いていた。
この人が、元肥後士族、田村圭一郎さんである。圭一郎さんは、竹内三統流とタイ舎流を幼いときから学んだ人で、西南戦争に十六で初陣し、その時に、猪之吉さんと知り合い、以後私淑し、終生行動を共にした人だと言われている。
この圭一郎さんに、豊前福光党の芸法と言振り文化を全て伝え、<福光の手は福光の者に>と後を託したと言われている。また、この頃、猪之吉さんは、豊前福光党の掟を守り、自らの芸法を名乗るときに、決して、福光の名を出さなかった。
古術には、<鎌倉の古風を今に伝える流儀>と言う伝承があり、他流と真剣手合いをする場合は、江戸の頃より、鎌倉古流・鎌倉風流伝古芸を名乗る風習があった。
そして、この田村圭一郎さんに、古伝の古術をベースに自身の北部九州における四度の野戦経験を加味して、新しく編成した近代古術を伝えた。これが、現在風門が継承している福光派古術で有る。
田村圭一郎さんは、剣・柔ともに優れ、絵に描いたような<律儀者>であったために
鎌倉古流二代目を継承させた訳である。
それで、話は戻るが、晩年、猪之吉さんは、やはり、福光党の芸法と言振り文化を福光の血脈を受け継ぐ者に継承させようと、豊前の地を訪ねたが、呆れるほど、落ちぶれ果てた福光党に愕然としたと言う。
その落剥した豊前福光党男系男子にあって唯一まともであった国太郎さんを後継者とするべく激しい修練が始まるのである。それが、国太郎さん、五才の頃の話である。
その後、猪之吉さんと田村圭一郎さんの英才教育の元、第十四代守人 国太郎さんが誕生するのである。
猪之吉さんは、既に老齢。全ては教えきれないと言うことで、他家の人であるから、福光の名を名乗らせなかった、圭一郎さんに
<我亡き後は、よしなに頼むと>と告げられたそうである。
そして、この圭一郎さんは、その<誓詞>を守り、豊前福光党の芸法と言振り文化の全てを全て先々代に伝えた。
これによって、
<今日まで失伝せずに済んだは、全て、鎌倉古流二代目 田村圭一郎さんのおかげなり。これも一重に、天意の証と思し召せ。猪之吉さんのこと、あまりに猪振り見事なり故、士族にても、これを慕う。まさに、古術芸法優れしからんのことよ。これ受け継がざるは、祖先の霊を足蹴にすることなり。後々のもの、夢々疑う事なかれ。まさしく、芸法今日あるは、猪之吉さんと圭一郎さんの二人ありて、残る。このこと、後々まで、語り伝えよ。>
とこんな感じで、古術<言振り伝え>では、語り継がれている。
従って、古術実質十三代目は、元肥後士族。十五代目は元秋田藩士族。
このあたりで、士族の芸法がかなり混入している可能性が、高いのではないかと言うのが私なりの推察である。
また、この圭一郎さんは、乱取りも強く、寝技にも達者であったと伝えられている。
柔道式の手業はこの頃、混入したのではないかと言うのが先代の見解であった。