風門の儀2017 第31回セイフティ格闘技選手権 無差別級 優勝記念PV
https://www.youtube.com/watch?v=zQBlw14cfJs
私は、故堀辺正史師範が、提唱した、武道とは<用・美・道>三位一体を目指す道という定義が好きだった。また、<他流試合即修行>も、私と同じ考えで有り、大きく影響された。堀辺師範のことを、いろいろ言う人がいることは知っているが、私は、思想家としての堀辺師範を尊敬しており、大きな影響を受けた一人と言える。
風門館では、<護身・健身・修身>の三位一体を目指して、修行しているが、武道修練の目的の第一義を<護身>に置いている。
この場合の護身というのは、万が一の防犯という意味で使っている。それも、逃げたらいいとか。危険なところへは行かないとか。謝って済むものなら謝れば良いとかいう、そういう牧歌的な状況を想定していない。
まず、相手は、犯罪者であると言うことを想定している。だから、逃げたら良いとかいう状況ではない。恋人・家族を捨てて、己一人逃走するのかという問題だ。
また、危険な場所へ行かなくても、突然、起こる通り魔とかなどうなるんだろうか?
さらに、悪行を働く者に謝罪すれば、ますます、犯罪を助長するのが現実であろう。そもそも、謝って許すような人間は、犯罪を犯さない。
さて、そういう状況に陥ったときに、どうするのか?
選択肢は二つしか無い。黙って殺されるか?当然、自分が殺されるような状況なら家族も殺される。後は、闘って死ぬか?
私は、迷わず、後者を取る。1%でも生き残る確率に賭けたいからである。
おおよそ、武道修練の目的は、そこに尽きるのではないだろうか?
単に、道の修行であれば、お茶もあれば、お花もある。修験もあるし、宗教でもいいかも知れない。
武道は、武之道である。まずは武力を着けることが目的だから、苦行のような修練にも耐えられる。
武は、<矛を止める>とかいう解釈も、戦後的・牧歌的な時代背景のもとで生まれたのではないだろうか?
最近の、凶悪で劣悪な犯罪ニュースを見る度、武力が無ければ、矛など止められないと感じる。
なぜ。武道なのか?そこには、己一身を守り、家族を守りたいという、生き物としての本能があるからだと感じる。
となると、<実用>でなければならない。では、何が実用なのか?
そこら辺の解釈が違うから、多数の武道・格闘技が乱立している。しかし、私は、この乱立は、むしろ多様性だと思っているから肯定的だ。
何が正解なのか?答えは簡単では無い。その中で、我々風門は、日本拳法道と福光流古術の併修という結論にたどり着いた。
半世紀以上、武道に関わってきた私の結論がそれだ。
だから、風門館は、私のような、<市井に暮らす凡夫のための護身の芸>を提案する場として設けている。
武道修練には、様々な付加価値があり、また、入門に当たっての動機も様々だろうが。
<武芸>の部分が、まずはありきが前提ではないかと感じている。