家風について語りたい 2
私の母親は、前半生を苦労した。母親の父親。つまり、私の祖父は、母親が、7歳頃に、シナ事変で招集。その半年後に、華北にて、八路軍の夜間襲撃を受け、戦死。遺髪と戦死の知らせのみが届いた。
指物大工であった祖父が生きていた頃は、田も有り、裕福に暮らしていたのだが、祖父が戦死するとともに、祖父の実家からも追われ、祖母と母親と叔父の三人で、男手の無い中、祖母とともに、田畑を耕し、生活に追われた。
祖父が生きていれば、旧制の中津高等女学校へ進んだであろうが、戦中・戦後の混乱の中、女手一つの家計では、いかんともし難い現実があり、無念の思いは、計り知れなかっただろう。
私の母親は、頭が良い。私は、小学校の間は、全て、母親に分からないところは聞いていた。集合理論なども知るよしもないのだが、教科書の説明を読みながら、ともに学び続けた。
さすがに、中学校・高校となると無理になったが、その後も私の買う国際情勢や歴史。小説などは、大半読みこなし、概ね、職場の同僚よりも、国際情勢について語り合える同志とも言えた。
そんな母親も、最近は、耳が悪く。まともな会話が成立しにくくなっている。本人が一番悔しいだろうが、ここは加齢だから仕方が無い。
自分の進学を諦めざるを得なかった悔恨を、息子と娘を大学と短大へ行かせるこで、晴らし、さらに孫は、全員4年生以上に行かせた。
孫筆頭の輪島塗の箸と有田焼の茶碗・湯飲みを眺めながら、88年間の何を思うのか分からないが、しみじみと日々、この箸と茶碗・湯飲みを使っている姿を見ると、少しは親孝行できたかと安堵している。
私も、母親ほどの苦労はしていないが、やはり、金持ちではなかった。
しかし、そういう話をしても、息子二人と姪には、飲み込めないようだ。
典型的な中産階級の子として育った、息子二人と姪の三人ともが既に貧しさとは何かが分からない世代に突入している。
次の世代はどうなるのか?
そこらあたり気になるところでも有り。もうすぐ生まれてくる戦後4世のために、書き記している。