日本には、数々の伝統文化がある。また、アニメなど、新興の文化も、詳らかに見れば、やはり、古典文化の影響を消化しながら、新たな発展を遂げているのがわかる。
その中でも、やはり、日本文化の華と言えば、日本武道こそ、それだと確信している。
<花は桜木、人は、武士>と謳われたように、理想的人格。民族的人格としての武士というのは、未だに憧憬の的で有り。また、それが正しいと思っている。
ちなみに、私は、江戸期のような、階級秩序としての武士を蘇らせたい訳では無い。
自由と民主主義の世に生まれて、かつ、文武に優れた、民族的理想の人格としての武士を常に念頭に置いて、喋っている。
一つの民族には、やはり、道徳的規範としての理想の人格が必要とされる。
だから、武道に限らず、日本においては、野球などでも、やたらにサムライJAPANと言う言葉が頻発される。
誇るべき事であろう。そういう、民族共同体として、一語で、イメージできる人格像を得られるというのは。
実に、誇らしい。
しかし、侍は、確率的には、やはり武道の世界から多く排出されると思う。
一途に、求道をすれば、結果として、侍になると言うことであって、一人の結果だけを見て、野球=武士道というイメージは沸きにくいのではないだろうか。
その点、武道は違う。入り口の時点で、大まかに言って、武士道に憧れを持って入ってくる。
だから、求道においては、イチローに劣るとも、意識においては、多数の武士を輩出する。
そこが、日本武道の肝だと思っている。風門が、格闘技では無く、武道に拘る所以である。
戦後73年。精神的に著しく劣化する一方の本邦にあって、日本武道は、その精神の劣化を防ぐ盾とならねばならない。
武士とは、もともと守るために生まれた。
民族文化の精華を守ること。それも、肉体言語で。それが、日本武道の役割だと思っている。
風門祭は、そういう理念の元、開かれている。
ただ、あまりに小さく、影響力が無いので、こういう大上段に構えて物を言うと、世間から笑われるが、我々は、真面目にそう思い、実践している。
維新回天の折り、本邦が、西洋列強の植民地にならずに済んだのも、草莽が真面目に考え、小さきことでも真面目に実践したからだと私は考える。
先人の小さくても、大きな志を受け継ぎ、小さき風門祭も、小さな一歩を踏みしめ続けるのである。